ベーネの『ラフォルグによるハムレット』を流し観ながら、フェリーニの『魂のジュリエッタ』を観ていたら寝落ちしてしまったのが昨日の話。今日は残りを観る。筋立てとしては夫の不倫に悩むジュリエッタ・マシーナを据えればそれだけで事足りる。このやたら冗長な心理劇の出来に肩透かしをくらうか、あるいは呆れてしまうかは、観る人間のこれまでのフェリーニ体験の道筋によると思われるけれど、この作品が『サテリコン』の前、つまりシムノンと交流を深める前の作品であることについては興味をそそられるし、この頃から既にフェリーニユングへの興味を抱いていたことも推察される。サイケデリックでけばけばしい色彩と搾取された宗教的な語彙が飛び交い、ジュリエッタ・マシーナのエゴとエスがフリークス的な形姿で入れ替わり立ち替わる様は、たがのはずれた無意識の過程、まるで曼荼羅のただなかにいるような有様だ。フェリーニはボリンゲンの塔を訪れたとき、ユングの遺品からただよううさんくささに親近感を覚えたともいう。スペクタクルは芸術かどうかよりも、木戸銭をとってみせるかどうかが肝心だ。ネオレアリスモを経験しながらも、世界のリアルを惜しみなく奪ってみせるフェリーニの挑発する虚構性はその点よく了解していたはずだが、この作品においては癒しへと向けられていることが鼻につく。翻ってそれも虚構だといっているのであれば、非常に辛辣な作品だということにもなるだろう。ルール・オブ・ローズを思い出しながら観ていた。

聞くところ評価の高い『Zhena kerosinshchika(灯油売りの妻)』を観る前に、オムニバス映画『Songlines』から、Aleksandr Kaidanovskyの監督した『For a Million』を観る。ブルース・チャトウィンの思い出に捧げるという一文から始まる(『Songlines』はまさにチャトウィンの遺作の題だ)。荒れ果てた修道院。マリア像の飾られた祭壇のある一室で、一人の修道士が生活に勤しんでいる。外から部屋に戻ると、部屋に女性の描かれた紙片が落ちているのを見つける。最初こそ気にならなかったが、ちぎれた残りの紙片が見つかり、次第に女性の姿があらわになっていくごとに、彼の世界に女性の像がより具体的に幻視されていく。禁欲的な出だしから、身体性への志向が明確になっていき、修道院という舞台装置のなかに退廃的ともとれるフェティッシュを招き入れて、最後に彼女の正体が明らかになることで、カタルシスはついに爆発する。興味深いのはその夢と現の曖昧な描写だ。幻視のさなかにあっては常に音楽が鳴り響いている。これは通常の描写において、四方の森から聞こえてくる鳥のさえずりや葉の擦れなどの自然音が多用されているのと比べて、対照が際立っている。そういえば、菊地成孔がアフロ・ディズニーか何かで「夢には音がない」といった趣旨を書いていた覚えがある。確かに夢には音がない。夢のなかで確かに会話をしていても、そこに音が欠落していることはしばしばだ。つまり、これまで幻視という言葉を用いてきたが、音楽が鳴り響いているあいだのそれは夢ではない点で誤っている。そしてこのことによってドライエルの『奇跡』ほど厳格でないにしても、一つの神性がこの映画のなかに立ち顕れてくるのだ。



ついにウテナを観終えたので昨晩から誰かに褒めてもらいたい気分。
青森最後の詩人ひろやーを見つけて、思わずRichard Youngsを思い浮かべた。名曲である『The world is silence in your head』、『Wynding Hills of Maine』ともに、メロディをリフレインしていながらも、前者は同一のフレーズをピアノに合わせて、後者はギターの伴奏で唄っているのだから、『新町』は双方の合いの子といったところだろうか。歌詞が特徴的なのも聴けば分かるだろう。シリアスでエモーショナルな音楽はたやすく人を感傷に浸らせるけれども、エロでナンセンスな音楽だって同じくらい人の胸を抉ってよいはずだ。あるいはエロやナンセンスが同程度にシリアスでエモーショナルであるだろうことは、もう当たり前のことに違いない。喚起される感情の方向付けが確定されないというのは、まるで標識のない交差点のようなものだろう。むしろメルクマールがないからこそ、フラットな状態というべきなのだろうか。人は重なり合った状態を認識できないのだから。ゲオルゲは『芸術について』でこう書いている。「我々が欲するのは事件の創出ではなくて気分の再現である。観察ではなくて叙述である、娯楽ではなくて印象である。」セックスがシリアスである限り(時期)において叙情性をもつのは、ゾーエ/ビオスの区分がもつ違和感を示すうえでも正しいように思われる。ともあれこうした倫理的な経験を十代で経験しておけば、人生観は変わるのかもしれない。よく知らんけど。

『ゆれる』と『秋津温泉』を観る。少なくとも、モダニティとの相克という点で、「近代」にコミットしていく姿勢はもう限りなくお約束に近いものがあるのだけれど、ただし制作の時期を考えても、手管の少なさが前者の分を悪くしているように感じる。家族にしろ、地方にしろ、国家にしろモダンな経験を構成するトポスには、おそらく今後も留保が必要にしても、それらが生起するはずである場所を必要としていながら、決して局所化されえない限りで、問題を臆面なく後景化しつづける単なるフィクションでしかない。要はそれに対してどれだけ自覚しているのかということだ。一方後者では、周作と新子が心中しようとして結局死にきれなかったとき、周作はベーネの演出するメルキュージオのように、死ぬはずだった人物として生きながらえて、物語は奇形化していく。そして、その後々まで周作に振り回される新子がたびたび「(周作は)あのとき死んでた方がずっとよかった」と半ばうそぶいて、よってたつ物語の歪みにその身を寄りそわせるとき、ついに贖いが予感されるわけだ。パヴェーゼの『異神との対話』で、ウィルビウスはディアーナに対してこう言う。「かつての少年の身が、死んでしまった者が、幸せなのだ。あなたはそれを救ってくれた、それゆえ感謝している。けれども生まれ変わった者、あなたの僕、樫の木とあなたの森を守る、忍び足の者。それは幸せではない。なぜならば、自分が存在していることさえ知らないのだから。誰が答えてくれるだろうか? 誰が話しかけてくれるだろうか?彼の昨日に、今日何が加わるのだろうか?ただ、別の血だけがわたしの血を鎮めることができる。そして騒いでは流れ、やがてまた満たされる。だが、わたしには必要なのだ。熱く親しい血を、自分に抱きしめることが。わたしには必要なのだ。ひとつの声とひとつの宿命を持つことが。ああ、野生の女よ、わたしにそれを与えてくれ」。そしてこう付言する。「わたしの願いは生きることだ、幸せになることではない」(河島英昭訳)。ふたりの幸せは常に他のところにある。昔々あるところに。

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ようやく明るい機内から宵闇のふかい底を覗くのでした。奥行きのなさにもう目が慣れません。ときおり点在する光が郷愁を誘います。あの瞬きは有史以来だれかが見ることのできた光だったのでしょうか。むしろ人はほの暗さより低く、かけられたショールの重さに身を屈めてい(られ)るのでしょか。けれども祈る手すさびの間にさしはさむ息は暗くてもひときわ熱いのです。手でふさいで息を整えました。見つからないために、息を浅くする必要があったのです。舌先の言葉も頬のうらにそっと隠しおきました。機体はいつまでもおらぶ風によって、その恥じらいを濯いでいます。夜の底が割れた音に耳をふさぎます。欠伸もでます。涙が出るのはいつも哀しいからではないからです。


ふつうに。FRANK LEDERのスモーキングジャケットがお安いぜってんでかなりほだされるんだけどもなにせ体型の都合やらなにやらで二の足をふめば使い勝手で買うんじゃないよとか諭されてやっぱそうだよなあとか思ったりしつつやっぱり人様に見せるもんだからとご意見伺えば似合わないから止めとけとの託宣に心が萎れる一方。それでいて景気づけに久しぶりにJurgi PersoonsのジャケットやらHaider Ackermannのジャケットに袖を通してみてやっぱこれだわとか一人で合点がいったりきたりなわけで。さておきさっきから夕飯で残った食べるラー油付き炒飯のおにぎりのこれから先痛むであろう痛み具合が気になってPC机に置いてるバルサミコ酢(ピエダングロワにかけると旨いとかぬかしたのはだれだ)かけたらどうだろういや一旦ほぐして冷蔵庫にねむるいかいしるで炒めなおすのがいいとかそういうことを考え出すと薬局で買ったオブラートでなんかタパス料理できないかとかにわかもいいとこのことを思い出したりしてそれもこれもフェラン・アドリアのせいなんだからねっとかいう同人誌があったら面白いか面白くない。面白いといえば今更ながらにメイちゃんの執事を読んでいてメイちゃんの執事アガンベンが論考するよとかメイちゃんの執事テオドール・ド・バンヴィルが詩にしたよとかその手の類をまとめて同人誌つくったらいいんじゃないかとか思ったりするけど、まあお兄ちゃんと一緒とフーリエの四運動の理論からゲルハルト・フリッチュの自殺を実証するよとかでもいいや。そういえば昨日ウテナを観ていて暴れ馬やら暴れ牛なんかが出てきて、なんだか旧きよきサンデーのかぐあいがして個人的にグッときた。