実は『ザ・ワールド・イズ・マイン』を読んだのが、今年の夏のことで、我ながら今さらと思いつつも、やはりその時は強烈な個性にあてられ、最後の場面に『EDEN』を連想したり、せいぜいボードリヤールの『悪の知性』を読み返して、「かつてはホメロスとともに、オリンポスの神々にとって観想の対象であった人類は、いまでは自己自身にとってそうなってしまった。人類の自己自身による自己自身からの疎外は、自己の破壊を第一級の美学的感覚として人類に体験させる段階にまで達したのだ」というベンヤミンの言を孫引いたりして、「現実が信仰の問題となり、現実を証明していたあらゆる記号が信憑性を失い、現実に対する根本的な不信が存在して、現実原則がいたるところで動揺しはじめ」たことを、暴力と絡めて異常に表現しえた作品だと落としこんでいた。実際作者は新装版に収められたインタビューで、帝国主義への嫌悪を明らかにしているし、確かにグローバリゼーションを問題提起し続けたボードリヤールとの相関は薄くないだろう。ただし、それはあくまでも物語の埒外の話。思い返せば、スーザン・ソンタグが『アルトーへのアプローチ』の冒頭で、「《作家》をその確立した地位から追い落とそうとする動きがはじまって百年以上立つ。」と書いたのが1976年のこと。当時と世相は変われど、依然《作者》の地位について物議がかわされ続けているのは、アントワーヌ・コンパニョンの著作を読んでも明らかなことだ。翻って作者の意図は置いておいて、いま冷静に読み返せば登場人物たちの行動はまるでフランキストのそれだ。フランキストを率いたヤコブ・フランクは、「アビラー・レシェマー(神聖護持のために罪を犯すこと)の義務」などのサバタイ派の思想をより純化させて、革命思想や階級闘争へと橋渡ししたことで知られている。そしてそもそものサバタイ派はサバタイ・ツヴィへと収斂される。この尊大な偽メシアは、殉教したイエスとは異なり、迫害の際にメシア自身がユダヤ教からイスラム教へ転向した。例えばジャンニ・ヴァッティモは「イエスの地獄下り」という神話的類型から「ケノーシス」に着目し、「弱さを克服」するのではなく「弱さに即した」思考を提唱しているが、一方で転向とは倫理的な態度なのだろうか。ゲルショム・ショーレムサバタイ・ツヴィ伝 神秘のメシア』の書評で、阿部重夫は「メシアには二つの身体がある。限りある肉体は滅びても、不合理を信ずる逆説の化体は滅びない」と、ショーレムの企図を端的に示している。確かに『ザ・ワールド・イズ・マイン』においては劇中、モンの生身の肉体と相似するメディア的な化体が奇妙に分裂しているし、最後に限っていえばメシアが地球そのものを見限り転向したと読み取れなくもない。折りよくローマ法王が「科学の発展は、われわれの想像を越えた複雑な自然現象が発見されるという点で胸が高鳴るものであると同時に、そうした現象を説明できると思っていた理論がごく一部しか証明できないという点で謙虚な気持ちを抱かせるものでもある」と述べたように、汲み尽くせない世界=碁盤の目のように中心を欠いて均一であるこそ敬虔と虚無主義が同時に生起するなかで、投企された身体性における倫理性を捉えなおす必要がまだ残っている。なぜなら「ザ・ワールド・イズ・マイン」はほら話であるし、そうしたほらにこそ真実を見つけたがるものだからだ。