鑑賞から日をおいたので、ようやく少し落ち着いて考えられるようになった。『シングルマン』においてはもっぱら美−意識の高さについて褒めそやされているわけだが、なるほど知識人である主人公と周りの調度は流々にモダンで、彼の出自(タンカレーやブリッティシュスタイルのジャケット)や精神性(青色の鉛筆削り)を表して見応えがある。そうかと思えば、夜の海に入るシーンで、主人公が衣服の着脱をためらっているところは「持病である心臓の病」と同時に「醜くなった身体をさらけ出すことへの抵抗(ジムに通うためにタバコをもやめてもいる)」を予感させて、そこには醜へのひそかな意識が働いている。また、主人公たちの関係と次の世代であるその教え子たちの関係は奇妙に相似し、また重なって、歴史の繰り返しまでもを予告している。この映画を支配するたおやかな沈黙とリズムの運動は写真と映画の違いを明らかにして、時間の豊潤さを現前とさせると同時に、この映画を錯綜する幾重もの弁証法的な対位が、そのじつ一枚の織物のように編みこんであることに気付かせてくれる。そしてこの映画の結末は解かれるべき結び目、一人の人間の解放のイメージだ。このような巧みな操作で、リアリティ=諂いへと傾きがちな世相のなか、SF的な要素もなしに非日常を構成することに成功した『シングルマン』だが、出てくる人物がほぼホモセクシャルと彼らに愛してもらえない女たちだけという閉じた描写のぶんだけ特異だ。おおよそのヘテロセクシャルにとっては、パンが口の中で食物である以上には注意されないように、同性愛への注意はイメージ以上には払えないはずのものだろう。しかし、キンゼイ報告に「成人人口の50パーセントだけがもっぱらヘテロセクシャルで、わずか4パーセントの者が生涯を通してホモセクシャルであり続ける。だから、成人人口のほぼ半数はヘテロセクシャルとしても、ホモセクシャルとしても行為可能、つまり、心理的に性生活では、両方の性にバイセクシュアルとして対応できる」という文言を見つけるとき、『シングルマン』へと加担していることの意味が少し明らかになってくる。あるいは、トム・フォードがよりよく映画を支配するための切断を通して、なお粗野な偏狭さが文明化された狭量さにすり替えられたにすぎなかったとしたら、この映画を評価する向きのなかに無意識のイントレランスが見つかるのだろう。