隣県に行く機会があったので、遅ればせながら『シルビアのいる街で』を観てきたわけである。『Tren de Sombras』や『Innisfree』』などの他の長編と比べて、ドキュメンタリーとしての体裁がなりをひそめてもまだリアリズム(オートノミーである「街」という空間のもつ虚構性)に抗したドキュメンタリズムが通底する、このたわいない映画の本質は、舞台となる街に指向性のないノイズが満ちていることに顕れているだろう。街中には人があふれ、広告が飾られ、おしゃべりが交わされるが、我々にはそのいずれも見分けることができないし、聞き分けることもできない。そもそも主人公の名前さえ最後まで雑踏に踏みしだかれたままだ。そのなかにあって、唯一シルビアという名前だけが街の底に沈みこんでいる。アミナダブにおけるリュシーのようにして。あるいはシルビアという名前に注意が向けられて、その他はいかにも散漫だ。むしろ、シルビアという端緒が、街の相の散逸をかろうじて抑えているのだろうか。それは映画という視覚芸術において、モダニズムが薙いだあとの光景のようにもみえる。ロザリンド・クラウスは視覚芸術においてモダニズムは二つの秩序を想定していると論じている。一つ目は、「経験的な視覚であり、視られるものとしての対象」だ。これは輪郭に縛られた対象であり、モダニズムが追い払う対象である。二つ目は、視覚そのものを可能にする形式であり、可視的だが視られないもの」である。続けてクラウスは後者の時間性が排除されることに目を向けているが、その不変の要素は星(アトム)の瞬きを予感させるものだ。ゲリン自身、インタビューでエリセから「(ゲリンは)亡霊を撮っている」と語られたことを明かしているのもこうした要件といえる。極北の点を中心として、回る星々のなかに我々は神話の類型を見いだすか、あるいは神話と星々を関連付けるだろう。星たちをつなぐ力が世界のなかにかくれて確かに存在している。この星座を取り出すことが認識なのであり、劇中我々はいくばくかの人物に注意を向けることもできるだろう(時計やベルトを売り歩く男しかり)。構成する最小の単位がそのような星座のなかに位置する点として捉えられることによって、シルビアをとりまく諸々はパルタージュされ、かつ同時に救われている。しかし、我々が何がしかを知る前にフィルムは巻き終わってしまう。それは『シングルマン』が努めて20世紀的な映画であるのに対して、『シルビアのいる街で』は21世紀的な映画の典型をなすであろうことを示している。前者は繰り返し観ることでよりよい理解を得られるだろう映画の模範だが、後者はたとえ反復して観ても我々は同じ場所にあるしかない。転じて反復は拒まれて、シルビアはどこにも逢着しないままでいる。かつて出来なかったことをいま実現する(=既に終わったことをまた開始する)という恢復のイメージは、反省を伴うバナキュラーな傾向からいきおいモラキュラーなイメージへとすり替わっているのだ。