2009-05-01から1ヶ月間の記事一覧

飢えは人間存在の底辺だ。祈りとは飢えへとへり下る行い。 飢えの底暗さは、存在の虚ろだ。 ウナス王の苛烈な飢えは女子供をも喰らい、猛て世界を喰らいつくさんとして星辰さえもが震えた。 恥じらいの中に飢えは濯げない。 産まれ落ちて初めて与えられるの…

笑われるとき、なじられるとき、泣かれるとき、無視されるとき、その時々にあるのは辱めに耐える精神ではない。 あるいは、感謝されるとき、励まされるとき、慰められるとき、気遣われるとき、その時々にあるのは高揚する精神ではない。 本来的に、共に似て…

贖いは、想起される過去となんらかの関係を結ばなければ可能とはならない。過去との関係は宙吊りの弁証法であるばかりではない。それはソンタグが「啓示の否定的なプロトタイプ」と呼んだ否定的な公現だ。 あらゆるイメージがそれについてしか我々に届かなく…

なんだか楽しい=悲しいので、一人で伊良子清白を詠む。 庵点: けふもひねもすあらしほの なぶるがままになぶられて おきつしらたまさぐりしが あすのいのちとたのむべき えものはふごにみちにたり はまのまさごぢあととめて くもゐはるかにながむれば まづ…

アイロンかけは素晴らしい。それは静かな熱狂だ。冷えた水で醒ますこともできず、ただその熱によって滾ることを目的としている。 アイロン台に向かい、内に溢れる温かさは夢想の喜びを肯定し、その中心には萌芽がある。 ウェルギリウスの『農耕詩』を思い出…

ユベルマンの説くところ、 人は互いに似通っているからこそ、あますことなく人類の咎を引き受けなければならないのだということ。 私たちの、咎の重さにくず折れるための膝だろう。こうべは、垂れるための重みだろう。 身体の深さは、吊られて己の首をへし折…

文字通り何もないところにカメラが動き、モンタージュの要素でもなく、デペイズマンによるイメージの火花でもなく、ただ映画だけが存在できるような、そんな場面がある。それは何も起こっていないという地点に引き戻すでもなく、あくまでも分かりやすさに留…

雨のきわで傘振り放けみれば、一把の小猫が夜の帳をよじ登るのをみた。 夜は弛み、あるいは伸び、裏地を見せて、薄くなり、そして千切れて、暗い細切れはふわりと一番に地おもてが近い。 裂けた夜からは、ありふれた風景の物静かな重苦しさがさらさらとこぼ…

私は過去を顧みる。 私は抑厭せられて、苦しい残虐の中から暗い星穴の過去へと逃れた。 過去を抱こうとしたが、過去も亦ちぢれちぢれの蜘蛛の糸にからまれている。 褐色の煤が玉をなしている。 その過去は細ったなりをしてふらふらと宙に迷っている。 私はそ…

道傍でごみを漁る烏が一羽、鳴くのではなく吠えているのが聞こえた。 それはカール・ソロモンに向けたギンズバーグの一節をまさに吠えようとしている姿だ。 「僕は見た 狂気によって破壊された僕の世代の最良の精神たちを云々」。 どこからか伴奏がつき始め…

人間が「遠く」を最初に意識したのは、コミュニケーション(あるいはコンミュニオン)の問題からではなく、獲物との距離からだっただろう。獲物との距離は透徹できるのにも関わらず、獲物との距離は近まらない。 さながらゼノンのパラドクスが活きた時代の話…

「可哀想(可哀相)」という言葉がある。文字通り、哀しみを共振できるという一方的な台詞だ。 共振でありながら一方的であるというのは、一見、修辞的誇張のようにも見えるが、 それが指し示すのは「共振できる」というものの、互いを分かつ距離に根ざした…

自身に倫理が要求されなければならないとき。 要求される倫理とは「待つ」ということ。そしてそれは必ず届く(届けられる)。 カイヨワは言う。「物事が解き難く錯綜しているものであろうとも、解けるものであるという確信がなければ、思考に価値はない」 こ…