シャルナス・バルタスの「seven invisible man」他が届いたので流し観る。受け手の感覚(とりわけ聴覚)に忠実であろうとする姿勢がここにきて一寸変化しつつあることにとりわけ驚きは感じなかった。
不在の身の上はただ自らの非固有性を顕示するのだから、表現のなかに衒いを注がないやり方というのはなかなかに難しい。
ブレッソンの言葉を借りれば、無にも等しい些細なものが余分か、あるいは足りないわけなのだろうが、
「いたるところにいるようにはもういない」というのは、言語の領野からジョナサン・クレーリーよろしく注意の問題圏に移っている。
あるいは映画が、何も見ずに目を閉じようとする欲求を満足させるようなやり方を発明するのならばそれもまた良しなのだろう。