フロマンタンの云うところの「より熱気のある感受性のかすかな粒子」が仕立てる何某を「より」低い意匠へと組みかえること。決定的なものの印象を受け付けない、現象の撓みとつかの間の実現、すなわち遊びの部分を自立可能な(抗する)限りで最大化する瞬間の単位とは、(不純な)時間と異なるはずだ。あるいは空隙=自由の豊かさが静謐をこそ招くのであれば、それはまったくの道徳性に不動する。『いやはてに逆巻く思ひ千首〈ちがしら〉は俯してうるほふみどり有限』。