カスパー・ハウザーについては今さら論を待たないが、ヘルツォークの「貸すパーハウザーも謎」を観て思いつくのはホロコーストラテン語、ひるがえってギリシア語で「丸焼きの犠牲」を意味するこの語は不適切なのかもしれないが)下における回教徒である。回教徒とは放棄することのできない自由の余地を放棄して、その結果、感情の働きと人間性のいかなる痕跡をも消し去った者を指して、それは一切の道徳意識を欠いているだけでなく、感覚と神経の刺激さえも欠くという。ジョルジョ・アガンベンの「アウシュビッツの残りのもの」では回教徒の一人、フルビネクについて記し、その証言不可能性に導かれる。『フルビネクは証言することができない。というのも、かれは言語をもたないからである。しかし、かれは「このわたしも言葉を介して証言する」。といっても、生き残って証言する者もまた、完全に証言することはできず、自分のうちにある欠落を語ることはできない。(……)その意味の欠いた音は、今度は、まったく別の理由のために証言することのできない何物か、あるいは何者かの声でなければならない。いいかえれば、証言不可能性、人間の言語を構成する「欠落」は、自分自身のうちに深く沈みこんでいって、もうひとつの証言不可能性に席をゆずらなければならない。言語をもたないものの証言不可能性にである』。このようにして彼方の人々は証言することができない。しかしながら、この作品で、ことあるごとに人はカスパーの調書をとりたがって、終いで検死で発見されたカスパーの異常をもってカスパーの関する無欠の調書ができたと歓声をあげて幕を閉じる。