山川に雲がさして新緑は濛濛としてゐる。人々は方方につどい、大変擾いでゐる。なんと灌漑の行届いた田野であらう。己は松の下なんかに立ちいで、こんな手合と雑談する。珍しい口碑をうつつなに聴く。のッぺりとして表情もなく、己は女を娶ったのだらうか。新緑と見紛う人情の秘密。己は性懲りもなく笛を吹いて唐辺木奴を泣かせる算段をはじめ相だ。夜とて粗末の夜具のいるものかよ。己は一途に景色に背き、風に冒され、露顕や辨償を気にもせず、村の災厄をそのままに依怙地になって悪女と堅い契をむすんでしまいそうだ。(「青葉」)

春雷の弾む日であった。山は幽に、雲の裏が黒く映って走ってゐた。命を禀けて三四。部屋をひらき、己はこんなうそ寒い火急の日が好きだ。遠いむかしの冬だ。己は出奔した事がある。狷んだことが。悖り竭し眷恋し、やがて斫るような狼藉。霏霏としてふる飛雪の世の胡盧よ。次の間にはちらと素剛の書がみえる。窓も営みと形を持ってゐる。ああ己ははじめ苟且のやうに臥したが、いまは大病なのだらうか。己は寝て読み、きくさへ奇異な火の宅よ。蟖闌けた木の花のさくこともない、往来に人のこぬ荒ぶれの日であった。己の妄業は畢になにを欲するのかよ。偖ても燿やふ山なみの下、垢重りした自害のていたらくよ。(「春雷」)