basilides2008-09-22

信によってそそのかされた身振りはどんなに自分に近くてもなお途上にあったが、ここのところひどくわずかな私は、ときにまるでそこに在るというのと同じようなぐあいにだ。在るというのがいよいよなじまず、ますます口の中には私が残る。理性の発生は、人間の口が一つであることから分離できないという。一つのものに一つのもの。したがって同時に複数の口がそれぞれに同じ注意を要求するとき、人はしばしば眠ってしまうものだ。(ex.ストローブ=ユイレの「労働者たち、農民たち」における、語り部達の証言)

「あらゆる言語のなかには一種独特な上方への衝動が働いており、その衝動はその最終的な志向において宗教的である」(カール・フォスラー)のならば、啓示として導きはなむけられる言葉が折々に一人の人間にいつか語りかけられる、その時にのみ出来事であって、救いは理念としてではなく、ここで我々に語りかける外在する内省としてあらわれるような、そういう語りかけが脱自然的な意味として捏造され、かつ再生産されることもまた可であることを示唆する。「いたるところがここである」(ライプニッツ)のではなく、むしろ「いたるところがここにこそなる」(2006-04-24

この後に及んでは、私が予め他者=あなたであるようにそれぞれが私であるところの等しさに加え、他者は私ではないという不均等が前提となる。肝心なのは「いかにして大量の自己固有化に向けてではなく、それ自体としての世界の享受に向けて送り返されるものなのか」であって、捏造される他者は私ではないという価値に定立して、私に対して私より自由であるわけだ。以前は、私によって為されるべきを「沈黙を空虚と取り違えることなしに沈黙するほかは少ない」としていた。しかし口をつぐむことは、複数から発せられ任意に交差して捉えられる差異を退ける点で、他者の貧困との謗りを免れえていない。関係性それ自体は知覚可能であって、差異が第一義的に在るものだ。「存在そのものの声なき声に人間が応答する」ことが「一致する」ことと同一であるのだから、言語の「交差」がとらえる差異―フラクタルな交接点―が他者となりうるだろう。もちろんその中に生理的な感覚の隙をついて「誤植」(これは正確ではないかもしれない)が混在することは否めない。むしろそうした多様さ(ノイズ)が世界へと意味を送り返す根拠となるのなら、それが不規則すぎることに正確な意味が存在しない一方で、私自身の感覚のパラレル(記憶において)な変質が世界の意味と同等(唯我論とは異なるもの)であって、まさに『私を象る器に並々と君が注がれて、私以上にはならない』わけだろうか。