試考

信によってそそのかされた身振りはどんなに自分に近くてもなお途上にあったが、ここのところひどくわずかな私は、ときにまるでそこに在るというのと同じようなぐあいにだ。在るというのがいよいよなじまず、ますます口の中には私が残る。理性の発生は、人間…

聖なるものが一方的に彼方である以上、その絶対的な「距離」という、断絶あるいは宗教的現象は政治という一定の現実と結びつくときに公の運動として関心を方向づける。存在がそれ自身の限界でわが身を損なってこなかったといえばそうともいえないように芸術…

静物は名伏しがたい兆しを孕み、常に為されること以下の存在である。他律から切り離されたそれは無気味に事実を超えて、蒔くべき種を粉に挽いてしまっている。それぞれのべつなく典型的な外部として、静物は中身のない墓標のようなものである。また静物は一…

悪という言葉を字義通りに解釈できないことを我々は知っている。一般的に社会的経験の個々のコンテキストにおいて与えられる与件がその経験を解釈する仕方を決定し、類型化は現在の経験に対しての根拠を与えてくれる。したがって悪は言語によってその本来的…

記憶が識別不可能な必然性のすべてである。これがあらゆる前提となる。これにより記憶することが記憶される内容に優り、共同に同一事を記憶するとき、その開示性が記憶の意味のなかに既に不可能的な形で含まれる。記憶によっては自然に自らを啓示し、そして…

望みにみちた思いとして救いはいつもささやかな釣り合いのうちにあり、眼に見える限りでの最上の釣り合いとは自身の身体性に釣り合っていることだ。今でこそ自由に疎外されるが、既に身体性に接続したとき、我々は自由になったと感じたので、それから先を要…

他者の擬人化を止めるためには‥‥と以前書いた。擬人化は客観的にただ存立する像をあまりに理想的に描写する。最高の意味において自然であるために。しかし、まさに自然であるがために、我々はその操作を掴むことが出来ない。擬人化は定められた個性の原理を…

始まりは、始まりの勃発にして、また始まりの解決として、終りを誘発せしめる流謫の世界に余韻をとどめ、それなしには有限の事物に逢着することもない現象の躓きである。始まりの痕跡はいよいよ白々と明けそめゆく意識と感覚の予感にして、ある種の作為的な…

私は自称にすぎない。ましてその正当性は主張するほどのものでもない。主体は剥離した時間の余剰な部分で、分裂した二人称として顕在する。あなたは確かに存在する。私はといえば安らうことなくひとりごちて、結局は償えないもののなかで我々は隣人同士だっ…

存在の継起が自己に対して何ら指示しえないものならば、他者こそが自己を示唆するがゆえに他者を経験することが我々にとっての最大の関心事の一つとなる。なぜならば他者は我々の特殊な契機であり、我々の外では理解されないものだからだ。我々によって他者…

私が予め他者=あなたであるようにそれぞれが私であるところの等しさに加え、他者は私ではないという不均等が私自身の世界観の動機となる。しかし言葉によって置き換えられた私はその点において他者から一時的に勝利を収めたに過ぎない。しかも言葉は事物を…

メモ・論理はその人間性から乖離してあるが、言語は人間性に密接であるがゆえに言語と論理の非整合性は狂気を生む。 ・社会的な出来事としての芸術は関心を強いかたちで乞い、要求するが、個人的な出来事としての芸術は関心を方向づける。 ・私は私である限…

文字を書き留め思考を、のちに反芻して再現させるように、生きることは人であったことを刻み、のちに記憶によって反芻して人であることが確認される。しかし惜しみてもあまりあるが、身体に蝕む生を排すことさえもほぼ無条件に人に寄せる期待を退けるまでに…

・言葉は人の物語によって区切られ、その先天的な知覚障害がゆえに世界は無私のもとで再現される。消費と生成を反復する物語の知覚範囲を超越するもの。それはどうしても在る「だろう」が故に不吉な存在の息吹き。引き延ばされた行間。暴力的な寛容によって…

・思考の固有性を今日的な意味に位置付けるとしても「夜」の後に「朝」が、その後に再び「夜」が訪れるように秩序ある変化こそが自然の節度であり、突き付けられた歴史=善悪の彼岸を転倒させたかたちで、起ち現れる自己を忘却した生の自閉はあらゆる霊的な…

本田透氏はギャルゲーにおける視座が実は男性(主人公)側ではなく女性(対象)側に依拠しているということを明らかにし、むしろ我々が操作によって女性(対象)へと擬装すること(=乙女回路)こそがギャルゲーの本質であると喝破している。つまり我々は自…

「夜」の後に「朝」を興すための不完全なメモ 肉体/オブジェに内在し客体=対象の共犯として憑依された「格」たる主体は既に他者である ↓ 等しくその秩序において連帯している、その相互作用の潜在的合意に成立する他者の擬人化を止揚したのち放逐 ↓ 新たに…

文学は優しい。しかしその優しさは舌根も痺れる程に甘ったるい死に至る病でもある。確かに文学は常に可能のものであったはずだ。しかし文学の優しさにかまけ、加速度的に生の消費を早めている昨今の状況は文学が凡庸な女であることを図らずも露呈してしまっ…

激しく荒ぶる感覚も一時もすればやがて失われるように一切が我々から一方的に奪われるのなら生の余韻によすがを認めることは出来ない。我々は生によってささやかな場すら提供されることなしに前方へと落下している(導出されている)。白日に晒されてきた後…

一般的な、愛を達成できるとの根拠の希薄な思考は必然的にその愛を断念せざるをえなくなる一因となっている。また、一時の暇潰しとしての愛の使用も、その達成を留保しておりボルヘス的円環から脱け出す一助とはならない。彼らは泡沫の間に狂気の夢を見てい…

我々は偶然にも身体に魅了されている。しかし巧みに配された四肢に違和感を覚えることはないだろうか。我々はそれぞれ世界を侵犯する暴力装置としての視座を有する。それは構造上、対自的ではないものの唯一鏡と対峙したとき我々は己を視ることになる。鏡を…

ここにあまねく見つかる言葉がある。それは単位、そして旋律、吟誦の断片である。淫靡で好ましい不潔さを振り撒くこれらの言葉は売春婦によく似て吐息を吹く。それでいて我々に与え返させず実に小気味よく物語を苦悶させ、それゆえ物語は絶えず不動のもので…

まずもって我々は「見る」ことなく「見られて」いるのではないか。私が意欲される限りでなく、むしろ発意することなしに節操なく発現していることに「主体」の暗い経験が洞察できる。我々の視線が流れ込む光に逆行し過去しか見ぬうちに、その視線は密やかに…

エディ・ゲレロが急逝した。彼のよく知られていることを改めて紹介することはしまい。彼は偉大な、一人の、プロの、レスラーであった。今は喪に服そう。言葉は軽く、そして薄い。認めよう。死に対し言葉は信頼するに足りない。彼の死さえ出来事的性格を付与…

魂なるものがあるとして果たして魂に「性」差はあるのだろうか。仮に魂がアンドロギュノスであったとしても魂でさえ「性」に隷属するものなのか。するとなると「性」は特質なのか、様態なのか。もしくは体系なのだろうか、記憶なのだろうか……。しかし「性」…

一度整理しておこう。「夜」の断片の「夜」は「全ての牛が黒くなる闇夜」のことではなくブローデルの言葉による「夜」である。もっともブローデルの規定によれば「夜」とは「東部地中海が歴史のゼロ平面、ないしほぼそれに等しいものに回帰する」ことではあ…

例えば「赤ん坊はかわいいフリをする」。我々はこうした独特の振る舞い(フリ)に遊んでいる。では、振る舞いに我々は収斂されているのか、もしくは振る舞いから我々は抜け落ちているのか。いや、こうした振る舞いこそが我々を指示するものだ。遊戯にこそ我…

私は何事かを知る。しかし何事にも拠るべき処を私は知らない。 言葉は対象に辿り着くことなく産まれながらに予め息絶えているのか。 自己が私に止揚されている限りにおいて私は世界的であるが私は所有から逸している。 世界は充溢している。いや、私によって…

人は追従する一定の事物にそのつど向かっているのであるに過ぎず、世界に注意を払わない。人は世界に存するが世界を目指して生きないのだ。世界は遊ぶ主体を欠いた遊びといえる。自己は個を個によってのみ囲い込むことで個をパーソナルな局地的な場として保…

原初への志向に我々はノストスを思っての苦痛で苛む。過去は意欲された限りにおける意味作用に他ならず、その価値とは未だ達成されていない何らかの意味である。確かに意味作用しなければならない、だが過度にではない程度において。重要なのは志向を調整す…