文字通り何もないところにカメラが動き、モンタージュの要素でもなく、デペイズマンによるイメージの火花でもなく、ただ映画だけが存在できるような、そんな場面がある。それは何も起こっていないという地点に引き戻すでもなく、あくまでも分かりやすさに留まろうとするスクリーン(錯覚)をさえ否定もする。映画の効果をその否定とともに生み出していくのだ。それのみが私たちにそれだけを伝わることを望んだ慎ましさ。花薔薇がどんな花束にも不在なように。しかしながら、ジャン=クロード・ルソーが「何も変わらないまま、すべてが異なるように。」というブレッソンの覚書を引き合いに出しているように。「何も変わらないまま、すべてが異なるように」、私たちは与えられたものを自分で組み合わせて構築していかざるをえない。あるいは構築しないがままにすることが凡そのことかもしれない。すぐれてヌーヴォーロマン的だ。視ることは書くことほどには満足に話せないものだろう。フリードリッヒ・シュレーゲルは『ルツィンデ』の一節として、「いま、わたくしはここに腰かけて何かしている。それは何もしていないというのをわずかに上回っているだけであり、むしろそれをさらにいくらか下回っている。」と書いている。アンドレ・ディアスも椅子に腰掛ける老人を撮っていたではないか。映画を含む何ごとにも真実を見る態度が愛だというのなら、私にとって愛は未熟だろう。なおかつ毎度流れる涙で文字が流れて、わずか一枚の上に全書が書かれてしまうのなら、風によってその恥じらいを濯ぐために、私は窓を開けるだろう。