ベルリン・天使の詩」を観る。今日が昨日のような日であり、明日も今日であるような連続性の感覚を前提としている都市、ベルリンの日常。人間に天使が寄り添う街。一方は栄光の、他方は肉の、二つの身体は区別され相互に属しあう。天使達が人間をやさしく撫で付けるとき、孤独な人間性は連続的なものとして立ち顕れはじめる。世界を貫いて渡るひとつの他性があり、その手の注目すべき働きによって、有限なものの無限の分離―無限なものによる有限な分離が示されているわけだ。コンステラツィオン〈星位〉。しかし、彼ら―歴史の天使は、歴史そのものについていかなる展望も開かない。彼らは現実を解消し、全面的な何かを期待できるような希望ではなく、運動を記憶へと媒介するパターン化されたイメージ―〈ムネモシュネ〉としてしか作用していない。差し挟まれるベルリンの惨状も大いに示唆的だ。ベンヤミンは、クレーの天使を「自分の眼差しが釘付けになっている何かから、遠ざかろうとしているように見える」と評した。「彼は顔を過去へと向けている。われわれには事件の連鎖が見えるところに、彼は破局のみを見る。破局は絶え間なく瓦礫を積み重ねていき、瓦礫は彼の足下にまで飛んでくる。彼はそこに留まり、死者たちを目覚めさせ、粉々に破壊されたものを寄せ集めて組み立てたいのだが、楽園から強風が吹いてきて彼の翼をふくらませ、その風があまりにも強いので、彼はもう翼を閉じることができない。この強風によって、天使は抗うこともできずに、彼が背を向けている未来へと運ばれる」。また。劇中ポツダム広場を捜し求め、ベルリンをさまよい歩く老詩人は、詩が可能でないのかを問う。アドルノの言を借りれば「かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない」からというわけだろう。話を戻せば、天使の一人(ブルーノ・ガンツ)は、手ではなく愛によって歴史という織物の毛並みを逆なでし、結果的に諸々の不連続面を浮かび上がらせようとする。分離のそもそもの根拠は翼だ。果たしてベンヤミンアンドレア・ピサーノ作の〈希望〉について、「希望の女神は座したまま両の腕を、かの女の手の届かない高みにある果実のほうへ差し伸べている。それなのにかの女には翼があるのだ。このイメージよりも真実なものはない」と論じた。また、それゆえに彼らは未来に背を向け、歴史の強風=力のアレゴリカルなイメージに無力なのである。真の運動とは、ある現前の触れることを可能にすることだ。なされるがままにしていることを、なされるがままにはしないことがすべてに抗する唯一の手段だ。真実のイメージを捨てて、歴史の天使はブルーノ・ガンツになった。過去から目を逸らし、すべての現実を贖うことができないままで。ただし、これは記憶=証言の終わりではなく、ノリ・メ・タンゲレを了解可能なものにするフレームに過ぎないことでもある。そのために人間であることの恥ずかしさが、生きるための最良の理由となり続けているわけだが。