『ゆれる』と『秋津温泉』を観る。少なくとも、モダニティとの相克という点で、「近代」にコミットしていく姿勢はもう限りなくお約束に近いものがあるのだけれど、ただし制作の時期を考えても、手管の少なさが前者の分を悪くしているように感じる。家族にしろ、地方にしろ、国家にしろモダンな経験を構成するトポスには、おそらく今後も留保が必要にしても、それらが生起するはずである場所を必要としていながら、決して局所化されえない限りで、問題を臆面なく後景化しつづける単なるフィクションでしかない。要はそれに対してどれだけ自覚しているのかということだ。一方後者では、周作と新子が心中しようとして結局死にきれなかったとき、周作はベーネの演出するメルキュージオのように、死ぬはずだった人物として生きながらえて、物語は奇形化していく。そして、その後々まで周作に振り回される新子がたびたび「(周作は)あのとき死んでた方がずっとよかった」と半ばうそぶいて、よってたつ物語の歪みにその身を寄りそわせるとき、ついに贖いが予感されるわけだ。パヴェーゼの『異神との対話』で、ウィルビウスはディアーナに対してこう言う。「かつての少年の身が、死んでしまった者が、幸せなのだ。あなたはそれを救ってくれた、それゆえ感謝している。けれども生まれ変わった者、あなたの僕、樫の木とあなたの森を守る、忍び足の者。それは幸せではない。なぜならば、自分が存在していることさえ知らないのだから。誰が答えてくれるだろうか? 誰が話しかけてくれるだろうか?彼の昨日に、今日何が加わるのだろうか?ただ、別の血だけがわたしの血を鎮めることができる。そして騒いでは流れ、やがてまた満たされる。だが、わたしには必要なのだ。熱く親しい血を、自分に抱きしめることが。わたしには必要なのだ。ひとつの声とひとつの宿命を持つことが。ああ、野生の女よ、わたしにそれを与えてくれ」。そしてこう付言する。「わたしの願いは生きることだ、幸せになることではない」(河島英昭訳)。ふたりの幸せは常に他のところにある。昔々あるところに。