basilides2005-10-31

人は追従する一定の事物にそのつど向かっているのであるに過ぎず、世界に注意を払わない。人は世界に存するが世界を目指して生きないのだ。世界は遊ぶ主体を欠いた遊びといえる。自己は個を個によってのみ囲い込むことで個をパーソナルな局地的な場として保全したが、もはや個は自己から解放されて分化されることなく共有される。つまり蓄積された個は致命的なほど過剰で、その耐えられない「軽さ」でもって個はもはやパロディになりつつある。我々は自己に退屈しているのだ。したがって「世界の意味は世界の外部にあるに違いない」や「神秘的なこと、それは世界がどのようであるかではなく、世界が存在するという事実である」などのヴィトゲンシュタインの言葉に耳を傾ける。しかし我々は世界を語ることが出来るのか。言語が世界についての最も同時代的な規定に到達する限りにおいては確かに世界は語られよう。しかし我々は「世界は理由なしに存在すること、あるいは世界が世界自体にとって、ひたすらに、そして完全に自己の理由であること」以外に世界を知らない。いかにティアマト、イミールやプルシャの神話を語ろうとも人が己自身の全存在に傾倒(倒錯)する程度に個人的ならばやはり世界は言語から抜け落ちているのではないだろうか。あまりに解り過ぎるという明晰性とそれゆえに語ることが出来ぬ失語症という二重の苦しみ。その中で我々は世界を履行する存在者として世界=光に身を寄せ合い、唯一光=世界を讃えて歌うほかないのかもしれない。

かつて私が己の頭上に静かな天空を張り拡げ、己の翼で己の天空を飛んだとき、私が遊びながら深い光の遠方の中を漂い、そして私の自由に鳥の智恵が訪れたとき、――しかし鳥の智恵は言う「見よ、上はなし、下はなし!身を四方に投げよ、また彼方に、後方に!なんじ軽き者よ!歌え!もはや語るな!」(ツァラストゥラ『七つの封印』)