紀伊国屋ホールにて開催された『波状言論S改』刊行記念トークセッション「ゼロ年代の批評の地平 ―リベラリズムポピュリズムネオリベラリズム」に参加した。さしたる展開もなく質疑応答も下らなかったこのイベントにおける数少ない見物の中でも象徴的であったのは、論壇においては門外漢である隊長に東浩紀氏の言質からは理想=ヴィジョンが見えないと看破され、それに対し東浩紀氏がポモ系論者のジレンマとして相対的で精微な省察を心がけるがゆえに大きな物語に介入することに抵抗を覚えることを引き合いにだしつつ、理想を語ることも重要であると認めたことであろう。しかしそうした態度は同時に東浩紀氏の批判の対象でもあった宮台真司氏の戦略=技術である「あえて」や大塚英志氏の左翼的な政治路線などの有効性を認めつつも、氏が代替の策を未だ見出せていないことを明らかにしてしまっている。また理想を語ることが重要ということはシャルル・フーリエの提示した産業段階におけるユートピアのような新たなユートピア像を提示することによって、サン・シモン型の生産重視資本主義から生まれた精神の傾向を経て自分達が参加せずとも生産には何らの影響もきたさないことを熟知した上で生産とは無縁でひたすら消費に奉仕する「我々」の時代の閉塞感を打破できるという確信を持っておられるということなのだろうか。時間も短く内容も希薄であったトーク「ショー」にやや意地悪な言い方かもしれないが、もはや必要なのは「なぜ〜してはいけないのか」や「なぜ〜してよいのか」という倫理的言説ではなく「どのようにして〜させるのか」というイノベーションへの方向付けではないのか。少なくとも二百〜三百人近い聴衆の中の一人は司会でもあった東浩紀氏の時折差し挟まれる講釈に耳を傾けながらそう感じた。そうした意味合いでポモ系論者には未だ非常さと覚悟が足りない。彼らが非常さと覚悟を持たず、意図して振る舞えない(≒政治化されない)のなら彼らの言説は弱いままだろう。そうした責任を近年の出版界における文芸誌の立場の変遷へと絡めるのもいいが根本的解決にはならないのは誰の目にも明らかだしスマートとは言えない。ここにおいて個人的には同じオタク=消費奉仕者の地平を見据えるにしても東浩紀氏に代表されるアカデミズム系オタク(オタク系アカデミストではない)よりも本田透氏のような振る舞いの方が魅力的であるし事実としてもその手法が有効であることはたまさかでない。しかしここにきて今年の初頭に開催された第四回オタク大賞にて岡田斗司夫氏や唐沢俊一氏などが言っていたオタクの利益代表者の必要性ということが俄然首をもたげてきたような気がしないでもない。それにポモ系の代表的論客であるジル・ドゥルーズミシェル・フーコーらが同性愛者に代表されるマイノリティを擁護した経緯もあるだけに、直接的に政治的な扇動者となることはなくとも単なる傍観者でもないことであることは可能であるのだから、緻密な方法によって運動の中で現れた表現形態やイデオロギーの彼方へと到達することに一縷の望みがあるように思われる。