basilides2005-12-27

本田透氏はギャルゲーにおける視座が実は男性(主人公)側ではなく女性(対象)側に依拠しているということを明らかにし、むしろ我々が操作によって女性(対象)へと擬装すること(=乙女回路)こそがギャルゲーの本質であると喝破している。つまり我々は自発的擬装者なのであって、自身を肉体/オブジェへと変容させる過程を留保し諸対象へ安易に依存してしまっているといえる。(この需要に応じた対象としての象徴、象徴を具体的に表象する代替としての記号、倒錯的錬成=遊戯の可能性として可変的なこれらの道具は使用に無関心であったり欲求を欠く者に強迫観念を生ませる)しかし情欲は対象の中で力を使い果たすまでには至らないため、対象の視座の間断ない暴力によって情欲は回帰し、ここに我々は客体=対象の共犯として憑依された「格」たる主体の到来を視る。その中途において愛が介在するのならばプルーストの「同一のものの排他的同性愛はあらゆる種類の横断的コミュニケーションを含み、花や自転車との交流さえ含むものである」との言説を受けて、我々はその愛を「萌え」と呼ぶことができるだろう。ジル・フェリックスの「ミル・プラトー」において女性への生成変化が他のあらゆる様相の生成変化の鍵であると位置づけられているように女性になることは異性を受け入れることが第一義ではなく、とにかく普遍的女性になること、そして操作者としての同性愛(自分萌え)から自己の真実を引き出すことである。ルネ・シェレールはその主体化(機械化)の過程を同性愛と異性愛がもはや区別されえない横断的コミュニケーションの世界とし、そこでは遂に獲得された非−人間的な性が花々と一体化しており、欲望はその基本的要素と分子状の流れに従って作動する新しい大地になるだろうと語る。しかし欲望に支持されるということは即ち形式に立ち戻るということでもあり、感覚の委譲及び世界化を目指す我々は否定こそしないが必ずしもこれに同調するものではない。身体性から意味を流出させることは正しかろう。しかし共−実存の契機であり身体性のゼロ地点でもある感覚を語らないことはノヴァーリスの言質を借用するところの「我等がいわば観察しているすべての対象のうちに固着し、そして一つの調和した多元に対し無限の理解できない、同時の感覚を感じる個々の時間」を蔑ろにしており、中間休止がなく常に継起するその出来事の内奥で存在は側面的で本質に欠けるといえるのではないか。我々は横断的コミュニケーションにさえも無関心であるべきであって、その前段階で理解することを禁じない限り必要なリズムに依存するという事実は感覚を理解から遠ざけることになるだろう。自然の花々と一体になるのではない、人工的な造花を信任するのである。

私はそれほど世界に属していないから、意味すること、語ることの始源である語ろうとすることからの後退を留保している。さらに上級の視点をたてるものではないが、視点のない真理をめざすこの後退を行うことによって、私は私の絶対的な場所としての私のここを、特権的な場のない幾何学的、社会的空間の内での、すべての他者に相対的な何かの場所に変えてしまう。私は私がここにいることを知っているが、それは私が単に原点ゼロでないだけでなく、私がそのことを考えるからである。私は同時に、事物の現存が一つの視点から私に与えられることを知るが、それは、あらゆる視点を越えて、事物をその意味において思念したからである。(ポール・リクール「人間」)


ありがたやありがたや。そして関連メモ

Pyrolator が予想以上に良かったのでDer Planにも食指を伸ばすか検討中。

・乗り遅れたネタだけれども何度観ても(・∀・)イイ!金朋に惚れた∩( ・ω・)∩