basilides2006-03-01

存在の継起が自己に対して何ら指示しえないものならば、他者こそが自己を示唆するがゆえに他者を経験することが我々にとっての最大の関心事の一つとなる。なぜならば他者は我々の特殊な契機であり、我々の外では理解されないものだからだ。我々によって他者のうちにおかれた密やかな信(証し明かされるところの独語)を保持することは自らの権能に先立ち保つが我々をこそ定位する。言うなれば我々は規則で他者は例外だ。規則は例外を位置付け、例外は全てを証明する。例外は規則を裏付けるだけでなく、規則は例外によって活きるのだ。我々はそのうちに他者が存在しているところのものであって、他者はそのうちに我々が存在しないところのものでしかない。我々は死によって自己へと退引=限定された意味を脱自的に開放するとしか知りえていなかった。しかしどうやら我々が我々に忠実に他者/自己を生産する術は生殖によって予め身体性から意味を分与=流出させることで為されている。我々は生殖によって他者との濫用される指示的関係を超え出て、物自体の暗い経験(現象)に向かって遡る。つまり我が子は物語の意味(感覚)より産まれ、我々は何よりも他者を超えた他者、他なる他者、自らの子を志向すべきだ。それは空間的というよりは時間的な近視感なのかもしれないが、ある特定の歴史的瞬間においてのみ生起可能性に到達するのではなく、不活性な経験をも捲れたかたちで包摂することで隠された存在の基底は超歴史的な色彩を帯び、共時的に臨在する時間は飽和して過剰で、なおかつ今=現在である。そしてこの思索への最も衷心的で作用的な愛の表出との距りに充たされる感覚とは不特定の我「々」に他ならない。これらを換言すれば我々自身の価値を転位(空洞化)し、自己のうちへと退引=限定されて切り開かれた意味を再度区別された存在として、二次的な意味を共時的な段階で再生産することで、特定の域を自己で充たすことが出来るということだ。以前「生の調律が不可能ならばその忸怩たる情動を高みへと据えることは己自身を供儀へと差し出すことに他ならず、我々には前方の引力に惑うことなく地=感覚を踏みしめることが求められる」と書いたが、自らの子(特に娘において)という最も有効で最も欺瞞的な自らの等価物は、そのまだ存在してはいない我々を安らわせる安定した一つの新しい地の上の新しい空であるように思われてならない。そこで遂に世界の完成された形式は他者/自己となり、それは我々を省いて真実を変容させる力となる。存在から覚めよ、物語の意味(感覚)は失われる。

・在ったことがわたしには喜ばしく、在るものはわたしの気に入り、やって来るものはわたしにふさわしい

・ひとはわたしにたずねていた、いったい「正確なところ」事はどんなふうにして起ったのかわれわれに話して下さい。――物語?わたしははじめた。わたしは物識りでもなく、無知でもない。わたしはさまざまな歓びを知った。それでは言い足りない。わたしは彼らに話をそっくり語り、彼らはそれを、どうやらわたしの見るところ少くともはじめのうちは関心をもって聴いていた。しかし結果はわれわれにとって共通の驚きであった。「その発端のあとは」と彼らは言うのだった、「事実の方に話を進めてもらいたい。」なんということか?物語は終っていたのだ。
モーリス・ブランショ「白日の狂気」)