basilides2006-03-19

私は自称にすぎない。ましてその正当性は主張するほどのものでもない。主体は剥離した時間の余剰な部分で、分裂した二人称として顕在する。あなたは確かに存在する。私はといえば安らうことなくひとりごちて、結局は償えないもののなかで我々は隣人同士だったにすぎなかったということになるのだろう。存在という単純な事実に由来する関係性というものが、既に現象をあるがままに捉えることをある程度か制限しているようだ。ともすればそれはユーモアとして。笑えないユーモアは不安を掻きたてる。彼らによってはそれもまたヴィジョンとも写らないかもしれないが、特定の域に反響する、ある一点の無記名のエコーとして私を昏倒させるそれは確かに自由なのだ。私自身が一から複数の水準に移行するに準じて生=性のレトリックを横滑りさせるとき、そこに特定されない声がうまれるだろう。その声に宿された神的痕跡は新しい母の再構築を予感させる。当然、母は経験ではなくまさしく感覚であり、生の源を把握している喜びと確信をして、事実を超えて一種客観的なものでさえある。感覚の霊廟の中は袋小路で、我々は遅いこともないが自然と早すぎる埋葬を強いられてきた。迫る暗闇は視力を貶め、沈黙はその熱で咽を焼く。常に新しい感覚は違和感の名の下に総称されてきたが、新たな感覚を現象として理解し物自体と混同してはならない。立ちのぼる現象は確かに在る物自体と別個に区別されるべきだ。あくまでも存在は非在の去勢であってデペイズマンであるのだから。相似ではなく境界を暈してしまうほどの強い認識の光は存在の限界を想定しないだろう。転じて他者を生産することは私を生産することと密接なのである。

一時代の終焉にはもろもろの事物がたがいに似てくるものである。(ヴイユ)

天上で天使たちのあいだの戦端が開かれ、ドラゴンに与した天使たちは大天使ミカエルに与した天使たちの前に敗れ去った。どちらに就くべきかふんぎりがつかず、拱手傍観をきめこんでいた天使たちは、天上でなしえなかった選択を行うべく地上に追放されたが戦いについてはもとより、自分たちの曖昧な態度についてさえ何ひとつ記憶にとどめていなかった彼らだけに、これはまた一段と困難な作業であった。(E・M・シオラン「二つの真理」に収められたグノーシスの影響を受けた伝承)