ファスビンダーの「何故R氏は発作的に人を殺したか?」ついて二人の談話を紹介しする。まずヴィルヘム・ロートは「悪い映画。俳優が即興で語るダイヤローグは、月並みなありふれたものなので、聞くだけでもほとんど苦痛である。ある種の抑圧のメカニズムは、もちろん明らかになる(Rの市民的素性、寄宿学校の教育、職場で認められることの不充分さ)。だが映画をどうしようもないものにしているのは、その内容だけではなく、その美学的方法でもある。他の映画の様式化、言語の人為性、身振りの儀式化は『R氏』においては、現実の物神化に変っている。俳優はどれほどすばらしく即興で演技しているにしても、結局現実の二重化を実現しているに過ぎない。どのシーンも、現実において続くだけ続く。自然主義的な映画があるとすれば、この映画がそれである。この映画にはあらゆるユートピア的要素、あらゆる理念が欠けている」と、こう評価している。これに対しJ・C・フランクリンはこう評価する。「言語と社会的攻撃の同一視が、常にファスビンダー映画の特徴だった。『何故R氏は発作的に人を殺したか?』において、観客の共感を呼び起こすものが何かあるとすれば、それは主人公が自分のフラストレーション、疎外、怒りを表現することが全くできないことである。最後のR氏の殺害の発作的精神錯乱は、世界に対する彼のステートメントである。言葉においてよりはむしろ行為として表現されるステートメントである」。さて、私自身の個人的な感想を述べれば、ヴィルヘム・ロートに同情を禁じ得ない。ロートの言うとおり、この作品においてファスビンダーの持ち味でもあり危うさでもあった即物的な印象は自然主義に取って代わられているようだ。確かにこの作品は今なお連綿と通底している、未だに今日的な精神を抽象的に抽出し、かつ念入り(ときとしてそれは神経質と思えるほど)に表現している。しかしR氏のその冷たい憤怒はカタルシスを生んでいない。ロートは「ユートピア的要素、あらゆる理念が欠けている」と書くが、個人的にははそれすらも楽観的に思えてならない。それはすなわち固有の裂け目、ドラマの欠如に他ならず、R氏が自死を選ぶ醜さにこそ収斂されているように思えてならないからだ。しかし私も数多いるそのR氏の一人に過ぎないのも確かなことである。エルンスト・ブロッホは言う。「もともと、人は在る。私が在るというのは、時には、まるでそこに在るというのと同じようなぐあいだ。しかしいつでも、どんなに自分に近くても、なお途上なのだ。在るというのは決して自分になじまない」。