basilides2006-03-28

始まりは、始まりの勃発にして、また始まりの解決として、終りを誘発せしめる流謫の世界に余韻をとどめ、それなしには有限の事物に逢着することもない現象の躓きである。始まりの痕跡はいよいよ白々と明けそめゆく意識と感覚の予感にして、ある種の作為的な過剰を指し示し、なおも始まりは充ち足りて溢れている。それは場所は移さずに現象から隔てられた物自体を変化させつつ、まさに同一の既視感によって、麻痺せる了解のもとに生起する。既視感とはそれ自体としては意味のない志向障害であるが、存在を確信させるに足る簡にして要を得た短さ、また同断である。イサク・ルリアの説くところ「始まりは天地創成の始まりを意味しているのではなく、神自身が監禁されたこと(収縮)を告示している」のだという。いわば、基礎づけられた始まりは外在の喪失でもあるのであって、我々は既にひとつの空間のなかに「ある対象」を忘れてきているのだ。さて、始まれば当然自ずとどこぞへと赴かなければならない。どこに行くかを知っているということは、ただどこに行くか分かっているというだけではなく、自分がどこから来たかがますますよく分かるようになることだ。しかし原初の、契機というただ一点においてはとかく「反省の発生する原初の状況は忘却である」とのポール・リクールの弁が際立つ。前方もなく後方もなく。それは物化された中絶として、一個のカスパール・ハウザーとして。黄昏も曙も結局は一明かりであるが、始まりは存在が意味作用をもつために中心に据えられた一つの不在であるからして、答えから問いに接着することはあっても、有限の水準である終りから無限の水準である始まりに接着することはない。蒔くべき種は予め粉に挽かれてしまっている。全てが始まり、全ての現象そして可能性がそれ以下なのだ。