basilides2006-05-20

悪という言葉を字義通りに解釈できないことを我々は知っている。一般的に社会的経験の個々のコンテキストにおいて与えられる与件がその経験を解釈する仕方を決定し、類型化は現在の経験に対しての根拠を与えてくれる。したがって悪は言語によってその本来的な性質から質的な差異へと還元されて、窮まった悪は量的に把握されることとなる。確かに悪の言語はかけがえのない言語である。人は悪について表白するとき、そのかけがえのない言語でもって「告白」することを厭わない。しかしながら言語手段を離れては私の経験、自己の経験というものを私は一切もたない。「ここ」から悪へと遠ざかる線は一本もないのである。悪は言語的な遠近法に関与しない消失点なのであって、人は言語によっては現実の悪に対処しうるほどに具体的にはなれない。これにより悪は「人間的でない」という存在論的な確からしさをもつとして認めねばならないだろう。なぜなら悪は状況づけられた人間の反省を迂回させるものでもあるからだ。反省とは言語に立脚して出来事の間に優先順位をつけ、あるものを有意味なものとして選び、その他を無関係なものとして排除することで、その瞬間に潜在的な(秘匿される)意味と顕在化している(曝された)意味とが潜勢力と顕勢力として相関しあい意識の流れを一寸止めることであるが、これが悪の経験が可能性として仮定されうるような場においては機能しない。当然悪の経験は可能性としても仮定できないのは言うまでもない。例えばD.M.ラスマッセンによって象徴と概念が区別されるとき、概念的言述が明晰で透明であるのに対して、象徴的言述は不透明だが豊かな意味を蔵し、またその一方で概念的言述はまさに言述に含まれる語が要求するものを意味しようとするとされる。ここで安直に「悪の象徴」や「悪の概念」を振りかざしたところで一つ処のものではなく、なおも一つの範疇があっては、非在や欠如とまた違った悪の不確からしさは否めないのだ。これはミルチャ・エリアーデの記す「宗教をその本来的な宗教として捉えぬとそのヌミノーゼ的要素が逸失してしまい、結果宗教を捉え損なってしまう」という様相に似ている。純粋想像が直接的知覚の有限な制限と言語を使用しての知覚の超越との間の媒介として存在するのならば、その内的な限界が悪を限界づけるというよりは、悪によってこそ(「悪だからこそ」ではない)純粋想像は限界づけられると言った方がより的確のようだ。どうやら悪の性質を把握するためには共感する他はないが、悪を期待することは出来ない。それは未来の経験に共感するのと同様の難儀な蒙昧に違いない。我々の意識的な動作の大部分は何かを変える外的な干渉を目的とする。そうした事情を聖トーマスは「為さるべき理由ある故に始まり、為されたる故に終る」と表現しているが、悪はまさに理由(始まり)も目的(終わり)もなく、ただ超然としてすべからく知性を痙攣させることに限られる。