basilides2006-05-08

記憶が識別不可能な必然性のすべてである。これがあらゆる前提となる。これにより記憶することが記憶される内容に優り、共同に同一事を記憶するとき、その開示性が記憶の意味のなかに既に不可能的な形で含まれる。記憶によっては自然に自らを啓示し、そして自らを人間性に添えるが、記憶が専ら実存的ななかから把握されなければならないのか、あるいはまったく別の、存在の証拠として顕れるものなのかの判断は難しい。しかしながら世界が存在の加算的総体ではなく、いかなる存在をも包摂し、その存立を与える地平であるように、記憶もまた歴史などとは無関係に広がる地平であって、人間はその有限性を自覚することで初めて他の様々なモノと関わることができる。そのなかで記憶者は彼の記憶によって自身の役を引き受け、その中へと没入している。しかし記憶の快は独特に現前とするものの、現実から遊離して、それゆえの苦痛が我々を捕えて離さない。それは記憶が即自的ではないがためでもある。記憶における目的とは自己を(情欲と同様に)布置すること、まして自らを存在の中心に据えることで周りを対象化することではなく、「いま」意欲される限りの「そこ」に結ばれる像との関係をこそ定めることにある。「いま」とは記憶の終わり、「そこ」とは記憶の評点がゼロになる、いわば周縁的記憶である。記憶とは動揺、いまだ出来事によって揺さぶられる余韻。したがって出来事に時間は作用されない。だからこそ動物は記憶を認知しないがゆえに記憶を全面的に肯定し、人間は記憶を知るがゆえに記憶を疑い、そして自然は予め記憶を否定している。それぞれが存在の強度を示しているようでさえある。