最近の裾野の広がり具合に比例してか「オタクとして幸せになるには」と考えられる風潮になってきた。特に若年層に支持されてであるが。オタクを小乗仏教に結びつけようが何しようが個人の範囲で救済に役立つなら好きにしても良いと思うのが、ただやはりオタクはそんなに立派なものじゃないというのが根幹にはあるし、あるべきだとも思う。好きなことばかりやっていること(例えそれが誤解であろうとも)に引け目を感じ、また社会に対して自身のおこがましさを感じられる節度が欲しい。卑屈なまでの奥ゆかしさが。それさえも自虐としてネタ化される時勢なのだろうけども。オタクだから善い人である必要はない。ただやはり声の大きなオタクというのはいかにも面映い。オタクであることに胡座を掻いて、自身の原因も目的もはぐらかしていては前途は暗いだろう。

《明々白々たる事実がそのまま真理なのだということに気付くまで二十年も待たなければならなかったとはね!》と僕は自嘲した。とくに今になってみると、僕はひどく倦み疲れていたにちがいないと思う。僕とおなじ年ごろの青年なら、誰もが、自分より確信にみちた女との間で経験するにちがいないと僕は想像するのだが、何度か感情的な幻滅を味わったあとで、僕は、この世の喜劇からは一切身をひこうという一種の誓をたてた。友情であれ愛であれ、他人とのアヴァンチュールにはつきものと僕が考えていたあの愚かしさを、なにをおいても放りだしてしまいたいと僕は思っていたのだ。僕は歯まで武装して戦争にでかけた。そして、安全さをより確かにするために、最後には自分と他人との間に軽薄さを漂わせさえした。(フィリップ・ソレルス「挑戦」)