ジャン・ドラノワの「田園交響楽」のあるシーン。長年盲いた眼に光を宿らせたジェルトリュードは病院を早めに退院し、初めて視る、馴染み深い教会を訪れる。折りしも賛美歌を指揮していた壇上の牧師は不意に現れたその姿を見つけると歌を止めさせて、皆に説教を始め、その眼からは2度だけ涙の筋が光る…。偽善的なリアリズムといわれようがこのシーンは美しいと断言できる。美しさの是非など問われようもない。ただし、これをただの慎ましやかな愛と悲劇の物語と断じることもまたできない。それぞれに愛を捉え損ない、寛容を性格づけられた彼らの、人である度量を超えて、あらゆる点で自身の愛が任意のものであったにも関わらず、ジェルトリュードの眼によって彼らの愛は汲み尽くされてしまった。それだけに最後のシーンは秀逸で、ジェルトリュードのよく映す眼を牧師は自らの手で閉ざしてしまう。そういえば眼は人、口は動物を象徴するという。ともすれば劇中においてジェルトリュードの登場は四つん這いで口を皿にもっていくことから始まり、そのとき眼が髪に覆われていたことは示唆的だ。つまり牧師は物言わなくなって再びジェルトリュードの人性=理性を封じたというわけで、それは牧師が十年もの間、盲いたジェルトリュードに施すことばかりに感けて、眼を開く=啓くという考えに至らなかったことにも通じるのではないだろうか。また、この物語は役割さえ変えてやればサド的な文脈で読み解くことも可能で、牧師(父)はジェルトリュード(娘)を血の繋がりがないがために犯そうとし、さらに牧師の息子(兄)は牧師(父)に代わってジェルトリュード(妹)を犯そうとしていると捉えることもできる。まさしく愛は理性のうちで錯覚となって立ち現れ、彼らの愛にモラルが欠けて凡庸であるがために、その愛はユーモアとして我々に黙殺されてしまうものだ。