これは自分への戒めとして。


今までそれこそ見識を広げるために努力してきたし、またそれなりに残るものがあり、それが悦でもあったはずだった。それは見識の広さ――「それ知ってる」や「こういうのがある」と他者に衒うことができるようになることこそが力(武器)の研鑚と思っていたからだ。しかし、それをいざ「書く」という行為に落としこむとどうなってきたかは長らくお付き合いいただいている方にはご承知のことと思われる。いかにもレビュー未満の文を書くにあたり、そこに意図が働かなかったわけではないが、それは例えば「自分の書きたいことなど既に書かれているだろう」や「消費されてしまう文だから」などという愚にもつかない言い訳であったことは認めなければならないと思う。


いまの限界が、他の優秀な言説・表現に「納得」してしまっていることに顕れているというのもあるだろう。当初こそこのブログは「試考」というかたちで自身の考えをカタチに成すことが狙いであったものの、それも1年近くご無沙汰だ。このような危惧は差し迫ったものではなかったが、常に漠然とした不安として感じられてはいた。そしてそれはとりもなおさずこれまで誤魔化されてきてしまった。いや、私が誤魔化してきたのだ。


〈オタクとサブカルの対立〉を冷笑的に「好きなものを手に取ればいいじゃないか」と捉え、〈世代間の対立〉を「世代って存在するのか」と問う。そのじつ当人のやってることといえばまるでテレビのチャンネルを変えるかのように「自分の好きなもの」を選び取っていたにすぎない。それはテレビのチャンネルを選ぶ程度の意思でしかなかったというわけだ。「映画」にしても「音楽」にしても「マンガ」にしても「アニメ」にしても「ファッション」にしても「ゲーム」にしても「文学」にしても「思想」にしても!!そしてそれは侮っていたはずの「テレビを甘受しているような人々」と何ら変わりなかった。


このような遅れは取り返せないし正直致命的といってもよいと思う。「あなたは何を為してきましたか」という問いに答えることができないのだから。もう一度、誠実であるために努力する、と言う。やることは決まっているのだ。「我慢して」書き、衒いなく「書く」ことを習わなければならない。書けなければなにものでもないのだ。