アフタヌーン12月号の幸村誠ヴィンランド・サガ」は出色の出来であったけれども、それはやはり劇中の愛を巡る対話によるところが大きい。幸村誠は前作の「プラネテス」においても愛について問うていたが、それをさらに発展させたカタチといえるのだろう。その対話の根幹をなす「愛とは差別である」との論調がはたして幸村誠自身の考えかはさておきまずは該当の個所を挙げたい。

クヌート王子「……ならば親が子を、夫婦が互いを、(側近であった)ラグナルが私を大切に思う気持ちは一体なんなんだ?」
修道士「差別です。王にへつらい奴隷に鞭打つこととたいしてかわりません。」
修道士「ラグナル殿にとって王子殿下は他の誰よりも大切な人だったのです。おそらく彼自身の命よりも…。」
修道士「彼はあなたひとりの安全のために62人の村人を見殺しにした。差別です。」


このような「愛とは差別である」とのある種過激ともとれる論説はさりとて目新しいものとはいえない。よしながふみ「愛すべき娘たち」の第3話では、強迫的とも思える博愛主義に自縛された女性、莢子の苦悩が描かれている。莢子はお見合いで「結婚するならこういう人がいい」と思える男性と知り合ったが、結局好きになれなかったとして断ってしまう。莢子は友人に「いつも好きになろうとはしたのよ。でも一度もできなかった…」と告白して以下のように続ける。

莢子「祖父は小さなあたしによく言ったの。『全ての人に分け隔てなく接しなさい。どんな人にも良くしてあげなさい。お前も常に誰かに助けられていま生きているのだから』。」
莢子「そうだなその通りだなと思ったわ。ごく自然に人はそう振る舞うべきだと思ったし、そうする事があたしには自然な事だった。『人を分け隔てない事。人を分け隔てない事…』。そうやって生きてきた事に後悔は無いのよ。」
莢子「でもあたし気付いてしまったの。」
莢子「恋をするって人を分け隔てるという事じゃない。」


図らずも莢子は自ら修道院に路を見出して「ヴィンランド・サガ」の修道士と立場を同じくするのは興味深い。「ヴィンランド・サガ」の修道士の場合はさらに話を深化させて、正しく愛を体現できるものを「奪うことなく惜しみなく与えられる」死者とし、死が人間を完成させるからこそ愛の本質は死であるとしているが、これについては少しばかり勇み足という感が拭えないだろう。あるいは時代背景からくるものだろうか。さりとておのおのの人間にとって肝心なのは、差異化を生きる、すなわち種の法に身丈を合わせて人間たる実質をもつということであるというのは十分に考えられることだ。つまり愛は「生き物」の要請がことばの次元に翻案されるときの非対称的な交換のあり方といえる。この「生き物」の要請とは諸々のイメージの働き方に現れて、種の形象として構成される限りにおいて主体にとっての機能という位置にとどまるだろう。なぜなら種の再生産という見通しのなかでは生物学的個体はそれだけでは存在を保証されない。ア・プリオリに人格を主体に与えることで、個の主体的形成を先取りしているというわけだ。ルジャンドルの言うように、主体化が話す種においては純粋な生物学的所与ではなく基本的に系譜的制度のモンタージュを通して交差し合う諸々の言説の効果ならば、愛とはその止揚なのだろうか。なるほど、もはや人間にとって恣意的でない用語でコミュニケーションを考える可能性を期待するのは難しそうだ。