存在は分かり合わなければならないのかという話から。場合によっては分かり合いたくない場合もあるだろう。しかし、そんな相手を憐憫でもかけて、切り捨ててよいものか。あるいは、コミュニケーションの不備を認め、かけ違いを引き受けつつ、無限のコミュニケーションを求めるべきなのか。
どちらかというと後者の方がモダンな考え方になるだろう。近代的世界は暴力を排除しようとする。コミュニケーションの透明性は無限という回数で担保されるというわけだ。

 無限である以上、コミュニケーションをとる相手を選択する必要がでてくるだろう。しかし、果たしてコミュニケーションを選択することはできるのだろうか。コミュニケーションとは投げる行為であり、かつ返される(ことを期待する)行為である。つまり、コミュニケーションは相手にとっても主体的な行為であるわけだから、むやみに勝手な選択はできないものだ。

 愛という概念を考える。本来、宗教から発生し、人間を赦しによって水平化し価値付けるところの愛が、コミュニケーションの一種として、人間を差異化する(相手を他人から区別する)ようになったのは、最近の話だろう。今では愛は二人の合意によるものであるというのが一般的だ。不均等な愛は、コミュニケーションとして成立していないとみなされる。

 しかし、そもそも、関係性がコミュニケーションに賭けられている以上、コミュニケーションから疎外された人間は何をもって関係を築けばよいのだろうか。それと同時に、コミュニケーションから下りることは不可能なものなのだろうか。

 神社仏閣で手を合わせるとき、人間はコミュニケーションしているのだろうか。これはコミュニケーションではなく、コンミュニオンと呼ばれる行為にあたると思われる。ここで人間がしているのは投げる行為だけで、即応を期待しない倫理的な姿勢だ。そしてその投げかける先は現在ではない。

 話を進めるにはキリスト教、特により原義に近いギリシア(ロシア)正教をとりあげる必要がある(本文中では「キリスト教」で統一)。儒仏は拡散したが、キリスト教は集合したというのも大きい。断っておけば、宗教的な状況がいまの本来的な状況とは思わないし、差し戻す気もない。しかし、古来よりの宗教の原義は、人間の根源に近いものと考えられる。

 キリスト教における信徒の本懐の一つは、イエスの再臨を待つということだ。プロテスタンティズムに親しんだ人間にとっては、イエス誕生を祝うクリスマスの方がとかく注目されがちだが、より肝心なのは地獄に下ったのちに、死者を引き連れるイエスの再臨である。現在とは、いまだにイエス再生の途中の段階であり、信徒は祈りという儀式によって、地獄に下ったイエスとコンミュニオンして、その再臨を待たなければならない。もちろん、再臨の時期は明日かもしれないし、数百年先かもしれない。しかし、それは‘必ず来る’ために、信徒は待たなければならないし、待つことができる。

 ジャウフレ・リュデルの「遥かなる愛」とは、見たことのない夫人への愛をつづったシャンソンであった。返事を期待せず、投げかけて、ただ待つという、このような弱い思考はコミュニケーションでないのにも関わらず、関係性として成立している。

 人は救済(他者との関係性)のために「待つ」という倫理的な態度を示してもいいはずだ。弥勒のために五十六億年待たなければならないのであれば、五十六億年待てばいいではないか。

 「忘念のザムド」の手紙のやり取りは少々楽観的ではあるものの、‘届く’という一点に希望があって、ひどく正しいように思われた。