「可哀想(可哀相)」という言葉がある。文字通り、哀しみを共振できるという一方的な台詞だ。
共振でありながら一方的であるというのは、一見、修辞的誇張のようにも見えるが、
それが指し示すのは「共振できる」というものの、互いを分かつ距離に根ざした一方的な独白だからに過ぎない。
哀しみは分かち合えない。悲しみから離れた安全な圏域にあるという確信が、この言葉を喉から先へと押し上げる動力となっているのなら、「可哀想」は発話者にとってより笑いに近いものとなってくる。
慎ましさを尊ぶか、あるいは言葉を捨てる努力さえしていれば、その不快さに気付き、使う気が到底失せ、耳に目蓋があれば閉じて聴こえぬよう試みるであろう、不快な言葉の類だ。
しかし、最近とみに力が欲しいと思うことがある。その力とは人を赦すことができる権能だ。
人-格である以上、起源からどれだけ(例え東の果てであっても)離れようとも罪から逃れることができず、
それを赦すことができるのは、神-格のみであるというのが、もっぱらの話だ。
別段、超人になりたいというわけではないし、かといってファリンゲッティの第四人称やドゥルーズの非人称には諦めがある。
ただ、苦患に背を屈める人々に「可哀想」と言ってのけられる人間になってみたいというだけのことだ。
「可哀想」とは断ることが出来ない暴力的な赦しの瞬間だ。
逆に言えば断られることのない赦し、つまり「君は哀しみに顔を歪めてもよいのだ」という。
それならば「在れ」というのはまがないの言葉である以上に、「哀れみ」の言葉であるのだろうか。
人は自ずから哀れまれて、むしろ哀しさに釣り合っているとでもいうのだろうか。