贖いは、想起される過去となんらかの関係を結ばなければ可能とはならない。過去との関係は宙吊りの弁証法であるばかりではない。それはソンタグが「啓示の否定的なプロトタイプ」と呼んだ否定的な公現だ。
あらゆるイメージがそれについてしか我々に届かなくなったという現実のままに、何も表象しないということは自由な選択ではなく、強制的な選択である。そこでは禁止が問題になるのではない。表象は距離の調整という問題から不可能性の問題へと変質してしまっている。
ユベルマンは過去に対する倫理的な立場の唯一のものとして、証言の可能性を、すべてに抗して作り出すことを呼びかける。
そもそも過去との対話を推進することは、歴史の理解をより豊かに広げたいという善意によって動かされている以上、その善意ははかられない。
それに対して、ベンヤミンは「歴史を逆撫でする」という態度を選びとり、歴史という織物に対して、その毛並みとは逆方向にブラシをかけてみることによって諸々の不連続面を浮かび上がらせようとした点で、ユベルマンベンヤミン的だ。それは例えば(私の)証言を証人(私自身)に同一化させることではないからだ。
それは〈否〉(ノリ・メ・タンゲレ)が絶対的な支配者として生成を統率するまさにその時点においての、「瞬間のまばたきのなかの〈諾〉」だ。
ただし、ジャン・ケロールアラン・レネの映画を評したように「平穏な風景も、鳥の飛び交う草原も、刈り入れや野焼きも、車や農民、夫婦の行き交う道も、縁日や鐘楼の立つ観光地の村も、あまりにもあっけなく強制収容所にたどりついてしまうことがある」。各々が辿りついた先は、結局のところ既視的なものでありうるのだ。
まさにこのような点で、かつて在りし人々の周りに漂っていた空気のそよぎを感じることがないかということ。我々が耳を傾ける声のなかに、すでに掻き消えた声の残響が混じってはいないかということは、伏流するコイメーシスと同質のものだ。
何一つ、復活はしないだろう。ただ、ひとつ現実を贖うために、自らができるひどくわずかなことで、過去から「生き延びる」、あるいは「生き返る」とはどういうことなのかという問い。「死ぬ」ということよりも「生き返る」ことを重視することは「ラザロ的」であり、それはなおかつ時間の様々な単独性、つまりその本質的な多様性に道を開くことができるのではないか。
いわゆる諸々の差異を提示するという緩慢さに則って、見ることのできないものはモンタージュによって組み立てるしかないようにして、可読性の埒外にいるというのならば、読むことのできるものとして組み立て直すしかないだろう。
ロベール・アンテルムは、SSがときおり強制収容所の収容者に投げかけた、名付けることの出来ない「笑い」を人間の笑いと共存させるべきだったと『人類』で述懐している。
やがて既視的な過去に無関心を寄せるのではなく、今では名づけられないものを現在とよりよく共存させること。
それが贖いであり、来たるべき小さな(手を拡げた位の)倫理だ。