ベーネの『ラフォルグによるハムレット』を流し観ながら、フェリーニの『魂のジュリエッタ』を観ていたら寝落ちしてしまったのが昨日の話。今日は残りを観る。筋立てとしては夫の不倫に悩むジュリエッタ・マシーナを据えればそれだけで事足りる。このやたら冗長な心理劇の出来に肩透かしをくらうか、あるいは呆れてしまうかは、観る人間のこれまでのフェリーニ体験の道筋によると思われるけれど、この作品が『サテリコン』の前、つまりシムノンと交流を深める前の作品であることについては興味をそそられるし、この頃から既にフェリーニユングへの興味を抱いていたことも推察される。サイケデリックでけばけばしい色彩と搾取された宗教的な語彙が飛び交い、ジュリエッタ・マシーナのエゴとエスがフリークス的な形姿で入れ替わり立ち替わる様は、たがのはずれた無意識の過程、まるで曼荼羅のただなかにいるような有様だ。フェリーニはボリンゲンの塔を訪れたとき、ユングの遺品からただよううさんくささに親近感を覚えたともいう。スペクタクルは芸術かどうかよりも、木戸銭をとってみせるかどうかが肝心だ。ネオレアリスモを経験しながらも、世界のリアルを惜しみなく奪ってみせるフェリーニの挑発する虚構性はその点よく了解していたはずだが、この作品においては癒しへと向けられていることが鼻につく。翻ってそれも虚構だといっているのであれば、非常に辛辣な作品だということにもなるだろう。ルール・オブ・ローズを思い出しながら観ていた。