basilides2005-11-06

私は何事かを知る。しかし何事にも拠るべき処を私は知らない。
言葉は対象に辿り着くことなく産まれながらに予め息絶えているのか。
自己が私に止揚されている限りにおいて私は世界的であるが私は所有から逸している。
世界は充溢している。いや、私によって世界は充溢しなければならない。
欠乏は悲劇だが、充溢は喜劇だ。
一人の喜劇役者は歌う。彼を誰が笑うのか。
私だ。私だけが彼を観ている。彼もまた私を見つめ返しているのか。しかし舞台はほの暗く顔は見えない。
義務よりも深い要求とその要求を裏切る諸行為との間の乖離は私に暗い経験を予感させる。
そして彼は放蕩の最中に嘔吐する。外套もなく自由に晒されているからだ。
それは世界の統一性に知られる疎外。彼によっては世界は為されまいか。
語るべき言葉なくして、また語る価値なく、よって語らず。されど漏れいずる言葉あり。
「知る」ことよりも「生きる」ことを決意するか。確かに生きている。私はそこでのみ生きられるからだ。

知はさらにいっそう根源的な体験のひとつの隠喩に他ならない。文字の体験、生と死、意味と非=意味が不可分なものとなる体験の。愛とは意味であり、非=意味であり、そして恐らく非=意味から生じることを可能にし非=意味を明白で読解可能なものとするものである。〔……〕みずからの言語を知らぬものは偶像を用い、みずからの言語を見るものは、みずからの神を見るであろう。(フィリップ・ソレルス「ロジック」)