basilides2005-11-07

例えば「赤ん坊はかわいいフリをする」。我々はこうした独特の振る舞い(フリ)に遊んでいる。では、振る舞いに我々は収斂されているのか、もしくは振る舞いから我々は抜け落ちているのか。いや、こうした振る舞いこそが我々を指示するものだ。遊戯にこそ我々は現象の媒介として世界に一方的に開かれた身体性の上に意味を認められる。こうした反省は内観ではない。反省は対象を迂回する。これは対象=身体についての反省なのだ。それにしても我々は身体を貶めるべきではないか。我々は過分に身体に魅せられている。遊戯の中間休止によって振る舞いは錯綜することなく遺棄=放置される。身体がオブジェへと変容したとき、身体は振る舞うことなく汎用的なカタチとしてただ「在る」。注意しなければならないのは人が「人であるフリ」を忘れゾーエーに拘泥することだろう。為すべきは身体性の特権を剥ぐことであり、これは身体=オブジェではなく身体/オブジェであることを思い出すということである。このとき個は一つの結実として身体感覚の世界化を達成するはずだ。これが主体の後に来るものであろう。

・われわれの身体性がいわば知覚範囲の零点である。
・人は仮面で遊ぶ〔演じる〕のではなく、仮面において〔を被って〕遊ぶ
(オイゲン・フィンク「遊び―世界の象徴として」)