basilides2005-11-10

魂なるものがあるとして果たして魂に「性」差はあるのだろうか。仮に魂がアンドロギュノスであったとしても魂でさえ「性」に隷属するものなのか。するとなると「性」は特質なのか、様態なのか。もしくは体系なのだろうか、記憶なのだろうか……。しかし「性」化した肉体で「性」の発現以前の状態を想起することは出来えない。全てが偽装的で操作において不可逆な状態だ。もしも、この泡沫的な世界に一つの意思が憑依(流出)していると仮定するならば、我々は世界に侵入しているのであって、象徴を遊戯によって解した二次的仮像(近似値)に向かって一人ごちている。ともすれば関係は言葉によって確かに阻害されているのであって、形式としての「性」が「言葉」によってこそ不全たりえているのではないか。「性」の具現化が可能になった時代にあって原初の性から「第三の性」のみならず「第Xの性」を抽出すること、男「性」が男性のみに、女「性」が女性のみに独占されない状態を社会「性」によって創出する新たな世界(性)解釈は決してカタストロフではなく混在しつつも常に調和している状態であって、「性」は他律して補完されており、これを「補完計画」とする試考は「性」をメタレベルで補足する上では有効だが「性」原理を根本的に突き放している。未だに人は二つの「性」に戸惑いを隠せないままでいる。自身を一時も知ることなく、また知られることもなく。己を知ることなくして私が私であることをどうして許せようか。我々はロジェ・カイヨワの、このか弱い一つの「言葉」によってのみ支えられている。『宇宙は解き難く錯綜していると言えるかもしれない。しかしそれは解きほぐされうるものだということに賭けねばならない。さもなければ、思考というものはいかなる意味ももたないであろうからだ。』

多くの者、いと喜ばしきことを喜ばしく言わんと努めしが空しかりき。ついに悲しみの中でこそ、われに語られたり。(ヘルダーリン「ソポクレス」)

メモ