basilides2005-11-14

エディ・ゲレロが急逝した。彼のよく知られていることを改めて紹介することはしまい。彼は偉大な、一人の、プロの、レスラーであった。今は喪に服そう。言葉は軽く、そして薄い。認めよう。死に対し言葉は信頼するに足りない。彼の死さえ出来事的性格を付与され我々から分たれるのだ。しかし今を生くる我々は他者の死を語られなくとも、主体的に「死」を語り「死」を個々に定位して支配することが肝要だろう。
「死」は他者によってのみ知覚されうる。しかし他者によってしか知覚されえないが故に、我々は実に「死」を欲しており、またそれ故に望む事物に意志で繋がれる喜びを、イメージ化する先取りの中に移りえない不透明さが生起してくる。端的に言えば、我々の死への沈黙は「死」に見惚れ呆けていることである。「死」への惚けはその不透明性に起因する想像の貧困に指示された逆説的憧憬なのだ。また「死」は身体性の全−不能を意味すると同時に身体性を何処かへと委ねる(投企する)ことを示す。一般的に身体性によって我々は自己自身に対して直接的に存在しており、そこに感情の閉鎖性も存するのだが、「死」によって身体性は純粋な媒介作用でなくなると共に全ての感情が一様に連続して開放=振動するのならば「死」は一つの開在性といえるだろう。「死」は分化した身体の全体的な未分化の経験であって、唯一の共−感覚である。そう、我々は「死」に強いられることなしに傾く。こうした共有=分割ないし分断によって横断されるという経験こそが主語である「我々」をなすのであって、ここにおいては「死」は共−実存の一契機となっていることも露呈される。もし、「死」に対自的人格を投影するとすれば、それは「母」に近似するのではないか。我々は「母」を通じて虚無を脱し、「死」を通じて無限へと逸する。換言すれば我々は「母」によって自己へと意味を退引=限定せられ、「死」によって脱自的に意味を開放されるのだ。「死」、それは等しく青ざめた「母」である。
もちろんこれが「死」の総てではない。しかし我々は独自に知られる。人は夢想の内に己を失うだろうか。いや、焔を見よ。焔の中にこそ我々の孤独がある。

焔のなかでなくて、どこであなたが小鳥をとらえる?(ピエール・ガルニエ「ロジェ・トゥールーズ」)

お前の雙の眼の森の空き地の火の荒振り、その天来の作りもの、そしてその灰の楽園を見せよ。(ポール・エリュアール

青ざめた死は、貧者の小屋も王者のそびえ立つ館も等しい足で蹴り叩く。(ホラティウス「歌章」)


メモ。12月4日は用事があって行けないのだけれども、それにしても今更「第1話」を上映するのはどうなのかね。これじゃ尚美であった音泉祭と企画内容的には変わらない。11月23日のイベントで「第7話」を上映できるのならば、いくらDVD発売イベントだからといってコンテンツを出し惜しみしてもしょうがないと思う。