basilides2005-11-19

まずもって我々は「見る」ことなく「見られて」いるのではないか。私が意欲される限りでなく、むしろ発意することなしに節操なく発現していることに「主体」の暗い経験が洞察できる。我々の視線が流れ込む光に逆行し過去しか見ぬうちに、その視線は密やかに現存在を予感させるものだ。我々は外部の視座の二次的な投企であり、世界に侵犯する憑代に近いものではないか。これにより魂の色合いを、生の奔放さを掛け値なしに信頼することが出来ない。さらに意志とは虚妄である。意志、なかんずく情欲は強迫された観念であって、操作不可能な外在的動機において規定される、憑依された「格」である。当然、ここでは「私」という主語は予め成立しない。もちろん肉体/オブジェにおいては私は語られようもない。では、全ては我「々」で語られなければならないのか。いや違う。我「々」も「私」を含意する限りにおいて適当ではない。つまり私とはあなた「方」という記述に付随する不特定の複数表記に埋没したペルソナなのだ。そう、私は一方的に他者であった。これは既に振る舞いではない。それは即自対自的人格の統一でもなければ一個の人格でさえなく、未だかつて何ものでもないものであって、単に誰でもよい全てのものに対する世界の形式にしかすぎないものだ。「私」は「あなた」への従属的変数の内にある。こうした本質を欠いた有限性への失意の中に望む事物は諸相の善化である。アリストテレスは「ニコマコス倫理学」においてこう語る。『如何なる技術も如何なる研究も、同じくまた、如何なる実践も選択も、ことごとく何らかの善きものを追求していると考えられる。善を以って万物の追求するところとする、すぐれた解明も生まれてくるゆえんである』。しかし善きものへの過程の半ば留保ない没入は、善きものを命運化するがゆえに我々を善きもの=目的から退け、ある他なる善きもの=目的の予告の中で宙吊りにしている。それはさながら内陸部にうち捨てられた「顔」のないパニュルジュの羊であり、羊飼いを見失いつつも崖(世界)=賭けから降りることを許されず、善き牧草地(蒼き清浄の地)を求め、さ迷い続けているようでさえある。しかし私が成立することなく善が為されない、この状況は私には生の不敬とも、災厄とも、遺棄とも見えないし、人間の(一時的な)敗北とも見えない。なぜなら我々は醒めている。まさに幼児が母の胸から程なく醒めるように。

それにしても「私」が私を指し示さないのであれば「私」とは私を動揺させることなしに何を示すものであろう?

生まれたという屈辱をいまだに消化しかねている。(E・M・シオラン「生誕の災厄」)

アダムとエヴァ、ある革命によって為されたものはある革命によって除かねばならない《林檎を食べること》(ノヴァーリス「断片」)