basilides2005-11-20

ここにあまねく見つかる言葉がある。それは単位、そして旋律、吟誦の断片である。淫靡で好ましい不潔さを振り撒くこれらの言葉は売春婦によく似て吐息を吹く。それでいて我々に与え返させず実に小気味よく物語を苦悶させ、それゆえ物語は絶えず不動のものである。了解のないこうした精神の痙攣もまた僥倖の愉悦であることはたまさかでない。一つの光が溢れ盲目となるが如く、一つの言葉が充ち失語症となることは無知の昂ぶり、交歓なき否定への供儀であって、感覚の委譲は僕たる我々にとって慎み深い信仰の達成(自己や現在への軽蔑からの解放または緩和)であり、また節度でもある。

ヘーゲルの否定性を唯物論的に逆転させる弁証法的な歩みにおいては、棄却の概念は主体の実践を指している。(ジュリア・クリステヴァ「ポリローグ」)

我々が肯定の主観的、意志的契機を、動詞の客観的で、自己自身による意味づけの契機に結びつけるならば、無限の意志と有限の悟性という二つの機能の間にもはや何の区別も存在しなくなる。(ポール・リクール「人間 この過ちやすきもの」)