basilides2005-11-28

我々は偶然にも身体に魅了されている。しかし巧みに配された四肢に違和感を覚えることはないだろうか。我々はそれぞれ世界を侵犯する暴力装置としての視座を有する。それは構造上、対自的ではないものの唯一鏡と対峙したとき我々は己を視ることになる。鏡を、己の形象を直視したまえ。そして身体の輪郭を丁寧に愛撫し余す所なく視姦してやるのだ。初めは誕生から日に日に遠ざけられる焦燥から当然、許しあった共犯的な反響、渇望されている一致した原初への郷愁を身体の内に視るだろう。だが、徐々にまるで自らの尾を呑む蛇の様に自らの視座の間断ない暴力に曝され身体は侵犯されていくはずだ。これは紛れもなく苦痛である。しかしここで顔を背けてはならない。次第に身体はその種々の文脈を四散し、身体性の内に隠匿されたデペイズマンが明らかにされるだろう。ここにおいて身体への盲従は潰え、遂に我々は鏡=シロアムの泉によって眼を開き、真の身体を視ることになる。この芝居じみた身体が主体の意思を表すなら、これは主体を涜す業となろう。しかし間違えてはならない。これによって身体は辱められるのではなく、むしろ身体それ自体が顰蹙の度を超えて破廉恥な異形であることが露にされるに過ぎないのだ。つまり我々はその美醜に関係なく、それぞれの身体にすこぶる嫌悪を抱くのが「正しい」。身体は個人化された全能の比喩とも言われたが全能は愛と同じく感覚によってもたらされる虚妄であって、我々は常に欺かれる希望の内に存しているといっていい。かの蝋の翼をもて、さかしらに「火焔」に近づくが如く、ただ潜勢力のみがよろしくその体をなす身体性は、生の黙示であるどころかその対遮物としてあるのならば我々は眩暈し、そして昏倒することだろう。しかし身体性の滑落が必然と称され運命と名付けられるとき、我々は悲壮な覚悟をもって「偶然とは分娩に失敗し畸形化した必然であり、それは必然を振る舞う偶然である」と身体を擁護しなければならない。確かに産まれることのない子供の胎動で世界は不妊に満ちている。だが、我々は生きることを決意せずには生きられない。もちろん我々は我々を反芻することなしに吟味する他なく、ただ歴史の温灰に埋もれるのを待つしかないのかもしれない。しかし我々は唯一抗う「ヒト」である。世界の間隙を突く機会を窺い耐え忍ぶ「モノ」である。

自分の見たものについての知的認識力を失ってしまった時、初めてそれを見たといえる。(ランボー

地獄を運命として甘受するということ、とりわけそれをそのようにして地獄の脅威を斥けるという意味にとるならば、それはなお地獄の存在を信じるということである。(ロジェ・カイヨワ「斜線」)

光と熱は火の様態であって特性ではなく、月の光は決して焼くことはない。月は冷たいのだ。つまり熱は元素的な火にとっては本質的なものではない。(ガストン・バシュラール「火の精神分析」)

これのライブ版を出す意図が分からんなー
・Braxtonのこれを買うのを忘れていた。覚えているうちに買っておかなければ。