basilides2005-12-05

一般的な、愛を達成できるとの根拠の希薄な思考は必然的にその愛を断念せざるをえなくなる一因となっている。また、一時の暇潰しとしての愛の使用も、その達成を留保しておりボルヘス的円環から脱け出す一助とはならない。彼らは泡沫の間に狂気の夢を見ているに過ぎないのだ。確かに愛のうちにあっては凡てが新鮮で明るく健やかで瑞々しいだろう。しかしそこに愛の価値は認められず、愛し合う当人達にも何らの価値も与えはしない。愛は自らに鞭打ち法悦に浸るのと同様な蒙昧の躍動である。それによって存在は弛緩し、またその瞬間は現実性をもたないために抽象に他ならず、それは生成を理解したいがために知性によってつくりあげられた仮像である。しからば彼らの愛に「眼」を向けたところで「眼」が翳ることはなく、何ら視ることなく愛を語られる彼らはまさしく狂人なのだ。愛とは業である。つまり愛から解放されることこそ愛の達成=成就といえる。しかし愛とは先天ではなく後天のものであって自然のものではない。自然以外で完全なものは偶然によって達成されたためしなどない。それにも関らず偶然性にかまけた愛、その著しく美を損ねた怠惰は「運命」と名付けられ礼讃さえ受けている。以前述べたように意志、そして感情は強迫観念に過ぎないのであって本質的に操作可能のものである。そして我々は良くも悪くもロマン主義的な愛を達成することで、その責め苦から解放されるべきだろう。その前段階として我々が現前せず触れえないモノ(二次元)をも愛すすべを身につけていることは喜ばしいことだ。そう、我々は何モノをも愛することができ、そして愛し続けなければならない。その愛の持続の中でこそ愛の達成=放棄が可能なのである。もちろん愛を忘却するのが理想的だ。しかし人は愛を喪失できるのかという問いに答えを出すことは必ずしも具合のよいことではない。ならば愛は統べられなければならない。そして世界の愛の慟哭で生を竦ませることのないよう絶えず愛を志向せねばならない。それはすなわち愛によって導かれるあらゆる生のうちで際立った、かの生。かの栄光の焔。

恐るべき誘惑を前にして人は燃えあがることを意識し、冷たくなり、烈しさを感じ、それを失ってしまう。この両義性こそが可逆のコンプレックスであり、楽園が見出されるとすれば火の運動のうちか、或いはその休息のうちにか、焔の中か、はたまた灰の中のいずれかだろう。(ガストン・バシュラール「火の精神分析」)

君自らを確立することなしに快楽を味わえ。さもなければ快楽を味わうことなく、ただ生存し続けるために君自らを確立せよ(ピエール・クロソウスキー「生きた貨幣」)

・メモ