basilides2005-12-11

激しく荒ぶる感覚も一時もすればやがて失われるように一切が我々から一方的に奪われるのなら生の余韻によすがを認めることは出来ない。我々は生によってささやかな場すら提供されることなしに前方へと落下している(導出されている)。白日に晒されてきた後方の狂熱を穿ち前方の闇をいかに克服しうるか。そうした生に対する無自覚な実感は比較的「正しい」が欺瞞的ではある。これは生への陶酔という事実だけをもってしては明らかにされない。崇高ではなく素朴な省察の対象として生を鑑みた時、まったく自然に生は不可避の現象である。しかし我々が主体的に、かつ能動的に生を履行したことがあったろうか。常に生を追認するだけで断罪さえ退けられた意識下において生が「志向」されることなしに生起するがままに放置されていることは生の肥大化と共に、生が所有されることなく用いることが許されている(可能である)ことを示す。つまり生とは私的所有を逃れた持続的な光の発露である。死は「我々」をなす共−実存の一契機であったが生は「我々」によってのみ語られ支えられる。もちろん生の従僕は生のために自ずから労働を志すだろう。しかし生の調律が不可能ならばその忸怩たる情動を高みへと据えることは己自身を供儀に差し出すことに他ならず我々には前方の引力に惑うことなく地=感覚を踏みしめることが求められよう。そして目指される感覚の委譲は生と死、そして記憶を挫折することにある。まずは詩との和解が希求のことであって、その後において我々は世紀末を発明しなおす必要があるのではないだろうか。

レールの敷かれた石畳の道を一頭の逆上した馬が、口から白いよだれを垂らしながら、嵐のような速度で暴走してゆくのを見てあっけにとられてしまった子供は、このとき、その馬に嘲りを含んだ叫びを送る母親たちを尻目に、存在たちの荒れ狂う可能性について言葉では言い表せないイメージを受け取ったのである。(ジョルジュ・バタイユ「人間と動物の友愛」)


・てっきり報道に行ったと思っていたら、ちゃっかり新たな路線を開拓している模様。共演者がアレで泣かせるけども番組内ではりきる姿に色々と感慨を禁じえないことではある。

これはありがちに評価が極端になりそうな気が。

・人は既知の事象を他者と共有できると歓ぶ性質である。というわけで全共闘世代、あるいは団塊の世代を手篭めにするためにここで勉強しませう。