basilides2005-12-20

文学は優しい。しかしその優しさは舌根も痺れる程に甘ったるい死に至る病でもある。確かに文学は常に可能のものであったはずだ。しかし文学の優しさにかまけ、加速度的に生の消費を早めている昨今の状況は文学が凡庸な女であることを図らずも露呈してしまっている。文学を志向するものが凡庸な女と臥所を共にし情事に励むとき、我々は白けてその「高貴な」魂がはぜる音を聞く。そろそろ文学の自由に玩ぶのも飽いた。我々が本当に欲しいのは柔軟で時代に即応しつつも一元的な「正しい」文学なのであって「間違ってはいない」文学などではない。それならいっそ、その絶滅を恐れることなく文学から文学的な言葉とイメージを収奪してやれ。文学の強度を信じたいところだが、恐らく文学は一旦死ぬ。我々によって決定的に殺される。一切が文学的ではない中で想像を誘引しなければならない文学を構築しようとする徒労、そこにおいて文学のために涙しようとも、それは既に文学的ではない。しかしその涙は主体において遂に真のものである。いつだって文学は悩ましいものであったが放棄するものではなかった。しかしもはや文学が言表の集合的生成変化からただの吐瀉物に堕したのならば、その死は希求、そして必然のものであるはずだ。いま、文学に伝承不可能性を付与し、一旦断念した上でその知られない残余を歓待することこそ文学を信頼するということであり、定められた文学は限りなく破壊されうる破壊されえない人間によって破壊されうる破壊されえないもので、要請される新しい文学は屹立した孤独の地平に聳えるだろう。そこでは予め文学は個々に占有されており、その極北は怒りの日の後に独自に知られることになるだろう。

ではお別れです、愛しい人。私は又愛を口にするところでした。(ポール・ヴァレリー「神話に関する小書簡」)

・今月のサイゾーの山形道場は痛烈。小泉義之氏の陳腐な例もアレだが哲学者はブレヒトの「転換の書」に所用された「認識の限界を探ること」と同様にこの喉もとに突き付けられた匕首を巧妙に避けるのではなく綺麗に払い落とさなければなるまい。哲学者に現在は近すぎるのかもしれない。ちなみに同号のマンガ特集も面白かった。サイゾーが盛り返してきた感がある。表紙はアレだがw

・それキタ(;゚∀゚)=3ハァハァ