basilides2006-01-28

文字を書き留め思考を、のちに反芻して再現させるように、生きることは人であったことを刻み、のちに記憶によって反芻して人であることが確認される。しかし惜しみてもあまりあるが、身体に蝕む生を排すことさえもほぼ無条件に人に寄せる期待を退けるまでに至るものではないだろう。我々を何処かへと駆り立てる、この震えは自己嫌悪を慰める自然な未聞の確信に過ぎない。それはつまり、例え生において何一つ起こることがなくとも我々には全てが予め十分過ぎるということだ。生の妥当性を証明するのは既に記憶に引き受けられている。それも他者の記憶において。経過という事実に立脚する記憶こそカタルシスを喚起するものだ。だからこそ我々は記憶の存在理由にいくばくも加担できるものではない。もちろんそれも我々があなたである限りにおいてその限りではない。記憶とは感覚によって凋落する過去の引き延ばされた断末魔、その大義は未来への躊躇なき没入である。しかし時間には上もなく下もなくただ時計の針のみがよろしく体をなすのであって、それは美しい花があって花の美しさというものがないのと同義である。それがゆえに過去と未来は同時に夢幻の如くして我々に一時も知られることがない。なればこそ現在をのみ止揚する記憶の魔は我々が了解した一切のことを不安へと至らしめる。これを換言すればこうも言える。何ら呵責なくしては人など無い。まして人である必要など!

神よ、御手に私の肉体をゆだねます。歓びに狂うと人は言う。悩みに賢いというべきであろう。(マルグリット・ユルスナール「火」)