basilides2006-02-16

私が予め他者=あなたであるようにそれぞれが私であるところの等しさに加え、他者は私ではないという不均等が私自身の世界観の動機となる。しかし言葉によって置き換えられた私はその点において他者から一時的に勝利を収めたに過ぎない。しかも言葉は事物を軽くする。いかにして大量の自己固有化に向けてではなく、それ自体としての世界の享受に向けて送り返されるものなのか。捏造される他者は私ではないという何ものにも還元されない至上の価値の上で構成され、私に対して私より自由であるという、この特異な一点で私を軽々と超越する。もはや世界は他者に賭けられるという断言によって新たに秩序づけられるだろう。いまや他者とは「ある目的」が既に与えられていないがゆえに私自身が責任もって開始するものであらねばならない。これは他者を吸収=解消する一体性のうちで、また私がその中で他者を溶解する一体性のうちで他者を完全に不在化する、つまり他者の意味から離脱することとは合致するものでない。存在とは実存者を存在させる、あるいは実存せしめるのであって、それは私へと退引した意味の中に他者を組み込むことなのである。これは決して自己卑下ではない。ジャン・ジュネは嫌らしさからの遁走を苦汁を進んで飲み干し、身を横たえ、流れに身を任せることで成すとした。しかし我々はその遁走を今では融和と捉えることは出来まいか。私は他者に対し一種の軽妙な洒脱さをもって無条件の責任を負う。そこにおいて存在は共立することで時間は過剰で、上位も下位もなく、孤立した実体もなく、ただ出来事ばかりが徴証としてあり、私によって為されるべきことは沈黙を空虚と取り違えることなしに沈黙するほかは少ない。まさしく私は要請されるところで止揚(aufheben)――廃棄する(aufhoren lassen)と保存する(aufbewahren)、その二重の意味において――されるのだ。

誰も話さないにもかかわらず、それは存在する(ローレンス・ファリンゲッティ「かれ」)

たとえだれ一人それを回想しなくても忘れえぬものとしてとどまりつづけなければならない。(ヴァルター・ベンヤミン

ユダヤの伝説に世界は三十六人の義しき人たちのうえに安らっている、と言われている。誰も彼を知らず、また彼らはお互いに知りあってはいない。また彼ら自身が自分が義しき人であることを知りもしない。しかし、彼らはいる。それで充分なのだ。それで充分であるに違いない。世界の柱は彼らのうえに安らい得るのだから。(マックス・ピカート「騒音とアトム化の世界」)