basilides2006-04-13

他者の擬人化を止めるためには‥‥と以前書いた。擬人化は客観的にただ存立する像をあまりに理想的に描写する。最高の意味において自然であるために。しかし、まさに自然であるがために、我々はその操作を掴むことが出来ない。擬人化は定められた個性の原理を自らのうちに(任意に)生動させ、その律動を保たせる。このとき初めて他者は固有の、そして真正な意味をもつのであるが、これもまた我々からすれば自ずからよく了解している出来事であるにすぎないのだから、その双方に通底する目的は事実性への使役ということになる。いや、より正確にいえば事実性の囚人ということになるだろうか。だからこそシステムは自己超越しないため、世界は安定し調和するともいえる。ただ、それだけに内省的で自己完結な遊戯(擬人化含む)は遊戯において、人間的な、あまりに人間的な(自身に問うことなど動物には出来ないし、神にはその必要がないため)中間休止の可能性を開示する。すなわち遊戯が生の歩みの連続性を、目的に規定された連関性を中断させることでこそ、そこにおいて意味が発生するのだ。その反映によって個別的な世界と生命の意味が現前化する象徴的行為。しかしながら現象そのものの純粋な姿である真理や世界さえも内世界的な存在者に依存しているとするのは早計だろう。むしろ我々は認識の複雑な体系のなかで間接的な自己である他者の経験に編みこまれているのであって、存在者は間主観的な人間性の表象に対応する程度に応じて現象している。間接的認識主観によって表象されること、意識されること、そして対象となること。こうしていわば認識の光にあてられることがまさに現象を意味するといっていいだろう。ちなみに一般的に「一致する」を意味する、「言応ずる」の原形entsprechenをハイデガーはent(対する)−sprechen(語る)として「存在そのものの声なき声に人間が応答する」という意味に再解釈しており、これは言語も当然現象に不可欠なものであることを明らかにするが、話が膨らむのでここでは触れない。むしろここでは「存在そのものの声なき声に人間が応答する」ことが「一致する」ことと同一であるということに着眼したい。存在者を、遊戯をして存在せしめるという、この異様な存在形式において表象されるというのは表象する者が対象化を施す限りで対象と共に生起するということであるからして、人間は遊戯するところで全体であるといえる。先だって、死が共−実存の一契機であり、「我々」をなすに足る感覚であるとも書いたが、遊戯もまたその限りではないようだ。確かに遊戯は共に遊び、互いに遊ぶという人間的共同社会の親密な形式でもあるので、共同遊戯者への開示性が遊戯の中に既に可能的な形で含まれているとも考えられる。もっとも、それは人間が本質的、根源的行為において対象から自由になることが叶わず、いわんや象徴の従属的変数のうちにあることさえも示すのであるが。しかしことによると従属的というよりは辺遠的といった方が適当かもしれない。なぜなら存在は間接的な自己である他者に一致するのであって、主体と客体という区分さえも理解できる程度の差異性として恣意的であるといえる。このように一致する存在が並存するのであれば、これは以前示した「蓄積された個は致命的なほど過剰で、その耐えられない軽さでもって個はもはやパロディになりつつある」の文意を強化するものだ。このとき我々は改めてそれを「キッチュ」と呼べる。

人間的な実存の仕方は曝出と秘匿というこの交錯によって常に緊張した自己による自己への関わりである。我々は絶えざる自己関心の中で生きる。(マルティン・ハイデガー

どこかで私は私自身のなかの何かに対してよそよそしい存在である。どこかで私はちがっているのだが他人とちがっているのではなく、私のなかにある親しい者たちとちがっているのである。(ジョルジュ・ペレック「エリス島物語」)