basilides2006-04-24

望みにみちた思いとして救いはいつもささやかな釣り合いのうちにあり、眼に見える限りでの最上の釣り合いとは自身の身体性に釣り合っていることだ。今でこそ自由に疎外されるが、既に身体性に接続したとき、我々は自由になったと感じたので、それから先を要求していない。マックス・ピカートは言う。「色々な事物がばらばらに破壊されて表現されているような絵は決して絵ではなく、実は微塵に粉砕されてアトムと化した現実の一区域にすぎない」と。身体性も同様に一個の額縁の上にぶち撒かれた事物の残骸であって、一瞬間だけ身体として成立するが、次の瞬間には再び滔々たる破壊のなかへ引きずり込まれる。こうして破壊によって不安が吹き払われることは、ここに固有な外として経験される。また、ありうべき訪れのそれ自体を別として、「あらゆる言語のなかには一種独特な上方への衝動が働いており、その衝動はその最終的な志向において宗教的である」(カール・フォスラー)のならば、啓示として導きはなむけられる言葉が折々に一人の人間にいつか語りかけられる、その時にのみ出来事であって、救いは理念としてではなく、ここで我々に語りかける外在する内省としてあらわれるような、そういう語りかけが脱自然的な意味として捏造され、かつ再生産されることもまた可であることを示唆する。「いたるところがここである」(ライプニッツ)のではなく、むしろ「いたるところがここにこそなる」。いわば救いは解放としてではなく生成として身体性の一時的な成果の表現であるが、しかしやはりそれは開示的であるがゆえに本来的な不安定であるところのものならば、不完全な構造的契機と言っても差し支えなく、具体的に言えば救いに意味はあるが不要な意味でしかないのだ。広々とした拒否の途上としてその出来事は、同時にいつでもいかなる瞬間においても可能となって瞬間に介入するとき、ひどく正しくあるようだ。