basilides2006-09-16


聖なるものが一方的に彼方である以上、その絶対的な「距離」という、断絶あるいは宗教的現象は政治という一定の現実と結びつくときに公の運動として関心を方向づける。存在がそれ自身の限界でわが身を損なってこなかったといえばそうともいえないように芸術もまた、自然らしさは欠いてないものの自然そのものを欠いて、場合によっては私の運動として関心を乞い、その限界の内側ではいたるところが同一であるように全き余白に欠けて、我々は芸術そのものに自覚的でさえある。はたして技術によって一個の作品として仕上げられる過程に事実をこらえて真実が残るということはあるのだろうか。事実とは画一的な自律性のことで、およそオルテガの説くところの「ガラス越しに風景を見るのではなくガラスそのものを見る意識」に違いないが、こと絵画に限った話にしても、拡がりはひとつ画布に煩って正しさに感けていることを思えば、事実は全体的とは言い難い。芸術が自在であることはむしろ聖なるものとの「距離」を予感させるが、それとて多分に芸術が事後的であるからで、従っては聖なるものも事前的であるとはいえないだろうか。このとき事前や事後とは出来事や行為に依らず、恐らく「判断」に依る。つまりは「理由がある」ということはようやく「理由がない」ということであって、「理由がない」ということもまた「理由がある」ということである。蓄積された個が致命的なほど過剰でその耐えられない軽さでもって個がパロディになりつつあるのに対して、判断は無条件に独立していることも示唆的だ。いずれにしても聞かれぬ歌があってもよいだろう。真実は依然として不可能だ。

Iratz e jauzens m'en partrai,
S'ieu ja la vei L'amour de lonh;


悲しくも歓ばしくも、われは去り行かむ
もし遠き恋人その女にまみゆるを得ば

(ジョオフレ・リュデル・ド・ブライユ「遥かな愛」)