Carmero Beneの「Salomè

まるで惚けを伴うエロチシズムの膨張と質的な豊穣さ(≠過剰)、その成果は圧倒的である。健全な欲望。音声と視覚の非合理的切断の可能性が、この作品においては目覚しい色彩で開示されており、いわゆる牧人劇の平凡さと異なるのは、マリニズモ‐ゴンゴリスモ以来の修辞的多彩であり、古くはピンダロスから下ってくる言葉の錬金術的系譜に連なるからだ。身体は実体とならんとしつつ、常に本質に脅かされている。サロメとアガウエー(マイナス/マイナデス)が相互に交換される。エピゴーネンさえ受け付けない、真にディオニュソス的な作品として屹立する、そのイメージは常に古くて新しい。

Jean-Daniel Polletの「Bassae」と「Méditerranée(邦題:地中海)」

題をあとから引いたので、鑑賞中にその名が兆すどころか、鑑賞後も地中海のイメージは先行しないままであるわけだが、ただ良くも悪くも現在の汎ヨーロッパ的な映画の傾向と逆行した試みではあるようだ。ややもすれば詩に映像をあてがったようなものと揶揄されても仕方ないが、しかしこの作品の強度がソリッドな事物を際立たせアクチュアリティを喚起する態度に支えられていることには好意をもつ。もちたい。まるで逆なでしたようというべきか、モノ自体を紙やすりで擦り、表面が削れ取れて剥き出しになるほどに粗だたせたような、なにか決定的に不穏な撮り方。さらにこれが今日的な立場=キッチュと異なるのは、その文脈において弁明を行わない真摯さ、あるいはカメラを前提としない映画であることによるからだ。またそれに彩りを添えるソレルスの文の壮麗さよ。不思議に個人的ないじらしさが感じられつつもスペイシーである限りにおいて、相克する映画。

『In the oscillation,this margin again will come the blind indication that the smallest thing is as great as the very greatest and that the view point is the same everywhere』

『Pain spread across landscapes you cross but can never reach』

コスタ・ブラバのカラ・モンジョイにある美しい入江を読みながら、投げ打ってあったフランスパンを捻るようにしてちぎって右の奥歯で噛むものだから私の額は左右の均衡を保たないのだ。エポワスの熟成がその内部で均等でなくわずかばかりの芯を残して流れ出してしまうように、周囲の音から少しずれたテンポで歩いてみる(あるいは歩いていない)私はさながら寿陵余子である。止揚していま戯れにカイヨワの『反対象』を手に取ればウェルギリウスの「奇数は神がお気に入り」の小節。そう、偶数は不如意であった。偶数=2のあいだに在る単一の距離は常に一定のものではないからこそ、問題はその距離=歩幅が身体性におけるドクサとなりえるその潜在的なものの全体だ(誤謬まで含めて)。

パリ・オペラ座のすべて
たゆまない解釈と研鑽によってエモーショナルに練り上げられた純粋な肉体は偽りをつくことができない。禁則と前例を参考にして、踊ることで収斂されていく、緊張と弛緩がゆりかえす所作の積み重ねは、過去の運動の復調を明るくきざす往来の場。手の届く範囲に必然性を抱き寄せるようにして、ほどかれた身体の結び目は残らないまま。カメラもまた弁明をしないまま。前提を無条件に肯定することが讃えられている。「素朴な音楽は訓練されていない現代人の耳には複雑すぎる」と言ったのはパーシー・グレインジャーだったか。素朴さという問題!この射程は聴覚を収められるだけに遠い。身体の遠近法のなかで迷子にならないために、ジャコメッティの彫像を所望するよ。

ベルリン・天使の詩」を観る。今日が昨日のような日であり、明日も今日であるような連続性の感覚を前提としている都市、ベルリンの日常。人間に天使が寄り添う街。一方は栄光の、他方は肉の、二つの身体は区別され相互に属しあう。天使達が人間をやさしく撫で付けるとき、孤独な人間性は連続的なものとして立ち顕れはじめる。世界を貫いて渡るひとつの他性があり、その手の注目すべき働きによって、有限なものの無限の分離―無限なものによる有限な分離が示されているわけだ。コンステラツィオン〈星位〉。しかし、彼ら―歴史の天使は、歴史そのものについていかなる展望も開かない。彼らは現実を解消し、全面的な何かを期待できるような希望ではなく、運動を記憶へと媒介するパターン化されたイメージ―〈ムネモシュネ〉としてしか作用していない。差し挟まれるベルリンの惨状も大いに示唆的だ。ベンヤミンは、クレーの天使を「自分の眼差しが釘付けになっている何かから、遠ざかろうとしているように見える」と評した。「彼は顔を過去へと向けている。われわれには事件の連鎖が見えるところに、彼は破局のみを見る。破局は絶え間なく瓦礫を積み重ねていき、瓦礫は彼の足下にまで飛んでくる。彼はそこに留まり、死者たちを目覚めさせ、粉々に破壊されたものを寄せ集めて組み立てたいのだが、楽園から強風が吹いてきて彼の翼をふくらませ、その風があまりにも強いので、彼はもう翼を閉じることができない。この強風によって、天使は抗うこともできずに、彼が背を向けている未来へと運ばれる」。また。劇中ポツダム広場を捜し求め、ベルリンをさまよい歩く老詩人は、詩が可能でないのかを問う。アドルノの言を借りれば「かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない」からというわけだろう。話を戻せば、天使の一人(ブルーノ・ガンツ)は、手ではなく愛によって歴史という織物の毛並みを逆なでし、結果的に諸々の不連続面を浮かび上がらせようとする。分離のそもそもの根拠は翼だ。果たしてベンヤミンアンドレア・ピサーノ作の〈希望〉について、「希望の女神は座したまま両の腕を、かの女の手の届かない高みにある果実のほうへ差し伸べている。それなのにかの女には翼があるのだ。このイメージよりも真実なものはない」と論じた。また、それゆえに彼らは未来に背を向け、歴史の強風=力のアレゴリカルなイメージに無力なのである。真の運動とは、ある現前の触れることを可能にすることだ。なされるがままにしていることを、なされるがままにはしないことがすべてに抗する唯一の手段だ。真実のイメージを捨てて、歴史の天使はブルーノ・ガンツになった。過去から目を逸らし、すべての現実を贖うことができないままで。ただし、これは記憶=証言の終わりではなく、ノリ・メ・タンゲレを了解可能なものにするフレームに過ぎないことでもある。そのために人間であることの恥ずかしさが、生きるための最良の理由となり続けているわけだが。

だんだんと見ることそのものの遅さに耐えかねている。単なる正しさに感けないためのすべとして。
もの自体が持続していく、あるいは認識=手に撚られたもの自体の細々さよ。
自然に対して、引き延ばされた無限の距離が置かれなければならない。「私」が後退していく。
それはもの自体へのためらい。どこぞなりへと逢着したいがために。