静物は名伏しがたい兆しを孕み、常に為されること以下の存在である。他律から切り離されたそれは無気味に事実を超えて、蒔くべき種を粉に挽いてしまっている。それぞれのべつなく典型的な外部として、静物は中身のない墓標のようなものである。また静物は一つでありかつ全ての場のなかで、ある対象を忘れている。このようにして形象しうる人間的なものを予め退けるのだから、我々が静物を名指すことはできない。例えば目の前にソファがあるとして、それを「合皮のソファである」や「腰掛けるためのソファである」と叙述したとしても、それはてんで的外れなのであって、特に「ソファはソファである」という物言いほど無頓着でピントが外れているものもない。このような場合に仮に答えを見出すならば、このようにして言うべきなのだろう。「なるほど、このソファの上でなら彼が殺されても不思議はない」。静物の表裏はこのように感覚の方向性に依存するもので、果たして希望は可能な限り把握されるべきだろうか。いやます静物のエロティシズムが引き出されるといってもよいだろう。

はじめに光があって、やがて煙に終るというのではなく、煙の中から光を生みだしてくるのである(ホラティウス「詩論」)

私は私自身を認め、いたるところから自分で自分を寄せ集めた(フィリップ福音書