カントールは死の演劇宣言において曰く「演劇が衰退期に、生きた身体組織の法則に屈したのは、演劇が生の模倣という形式、すなわち生の再現と再創造という形式を受け入れたが故であり、演劇が諸制約から自由になりうるだけ十分に強固で主体的であったとき、…

アフタヌーン12月号の幸村誠「ヴィンランド・サガ」は出色の出来であったけれども、それはやはり劇中の愛を巡る対話によるところが大きい。幸村誠は前作の「プラネテス」においても愛について問うていたが、それをさらに発展させたカタチといえるのだろう。…

これは自分への戒めとして。 今までそれこそ見識を広げるために努力してきたし、またそれなりに残るものがあり、それが悦でもあったはずだった。それは見識の広さ――「それ知ってる」や「こういうのがある」と他者に衒うことができるようになることこそが力(…

一握を砂もて幾舞い知らず、 たま散らす二重の遊絲にて、三歳に寿ぐ丈の髪。 四方は積みわらの外なるべく入日を洗う五尋。 睦月のかさは軒端に彩なし、遠近の斑は七谷端こそ。 哭かしつつ重んもりせる八女の業、埋火の傍は朱の薄様。 冬青は九重の日相にして…

サム・ペキンパーの「わらの犬」は前半と後半のギャップがとりわけとりざたされて、このカタルシスこそが褒めそやされている。しかしバイオレンスを持ち味としたペキンパーの技量はむしろ前半の丁寧な心理描写にこそ表れていており、ダスティン・ホフマン演…

薄暮は常の日に断ち朱面をこそ澪の斑。 並みたち垂る影の折々は骸萎の葉の一群毎。 とぼそけき足の音の佳の来。 上ぬるむ面より際に垂れ曳くまどかなる先触れ。 昨のかげに彩も濃き布く流るる紗よ。 軟風にても熟えて落ちたる背の朱唇かも。 ※かわたれはつね…

語る な、かよはき ものよ、 そ してお前、 夜の 巴旦杏の やうな、夜 の闇の中なる 婚配の香り よ。 あらゆる砂 浜にさまよふ、 あら ゆる海に さまよふ者、優し さよ、語るな、 して、お前、私の鞍の 高みに 翼装ほへる現存(もの)よ。 (サン・ジョン・…

想念に遊ばず、夜に目を伏せ、私の足取りは距離を残して世界をどんどんと小さくする。躊躇われたのは、いくらかの家があるほとんど一つの食卓に、目の高さを後景へと退け、片方の部分を―かれと呼び、その視線の外れた一枚、二枚の透過性、あるいは許される限…

ローベルト・ヴァルザー「散歩」 わたしは、気持ちのよい、よろこばしいささやかな散歩をしたのだが、それは足どりもかるくこころときめくものとなった。村を通りぬけ、谷あいの小径といったところを進んで森にはいり、それから野原を越えふたたび村にはいっ…

地に行き止まる 青 酔え 水辺に 背のほくろ たった一人だけの 息が白く 二歩 なだらかな勾配 許しがたい いよいよ ひばり 語らしめて 手と 手 手 と手 のぞけば 影が小さくなる 小さくない 小さくなった 雨 沈丁花 対になる彼女 誰か 愛さざること ついに 雨…

共時のなかで期待のかたちに拡がる内外へのとりなしを結び被さる土の音が晩い宵闇の果つる高さと等しくなるとき寄る辺に沈む足先にまるで距離が足らずしていま一つの場所に押し黙られねば舌も結わい石さえも語られない。係累はそれぞれに脅かされて私はしか…

カスパー・ハウザーについては今さら論を待たないが、ヘルツォークの「貸すパーハウザーも謎」を観て思いつくのはホロコースト(ラテン語、ひるがえってギリシア語で「丸焼きの犠牲」を意味するこの語は不適切なのかもしれないが)下における回教徒である。…

コリウッド(Kollywood)は南インドはチェンナイ(旧マドラス)のコダムバッカム地区を拠点とするタミル語映画の通称。トリウッド(Tollywood)は下北沢の短篇専門の映画館でもあるが、一応インド東部のハイデラバードを製作の中心とするテルグー語映画の通…

それはある日、もしくは夜であらねば。燭台をふり、一人でにこの夜をはじめて、つまづきの石によろける彼女の知らない何らかの理由によって彼女は転がるの人。彼女の、あるいは往々にして転がられるだけの彼女は以下を欠いて、経験しているのはまさに転がる…

乾いて重いばかりか沈む水に息ができず、点いたテレビさえ空がようやく低いのに、私も息だけが白いまま、天井が冷たくて、ちょうど朝なわけだという。まずは花が挿されたので枯れてはいない挿さる花は転がらない限りの硬貨と摘まれている花によって等価で、…

ただ待つばかりの感動に醒めてしまい、笑うという事実は動かしがたいのに笑うに堪えない。 愛せぬものを失うことは不幸ではないはずだ。 優しくされることに馴れたいが、せめて善意に自覚的でありたい。 偽善者になること。そして関係を諦めること。つまり、…

ジャン・ドラノワの「田園交響楽」のあるシーン。長年盲いた眼に光を宿らせたジェルトリュードは病院を早めに退院し、初めて視る、馴染み深い教会を訪れる。折りしも賛美歌を指揮していた壇上の牧師は不意に現れたその姿を見つけると歌を止めさせて、皆に説…

どうしても少女はここにおり、こことは肉体であり、肉体は私で、常に人間だった。ようやく暮れやすい一日で、ここから見える濡れしぶき滲む砂々のうえに、星を追って流れる、同じ原因によって生まれた子供たちの列の先は今宵かなしく見えない。ここに何とし…

子供の時分で、まだ残照をたたえた庭に、口角を広げ、両手を高く掲げて飛び出でて、奥に見える暗い山に、風鈴がひとりでにそっと鳴る。軒先から漏れる蛍光に照り返る、慣れないゴムの臭いに、冷えた水を隙間なく張って、独り、諦観のくだりはそのままにして…

見初められた日のこと あるいは君の名を うすらいも溶ける春の後先に ここはいま少しだけ空が高い 手をのばし 灯りを消しながら 君はそうして久しく微笑むつもりなのか(basilides「一夜」)

「ドイツ・青ざめた母」では戦争を通してドイツ女性の気丈さが描かれるも、むしろそれゆえに恥辱にまみれながらも悲壮さが伺えない。70年代の女性運動を牽引したヘルケ・ザンダーらが西ベルリンにおいて第一回国際女性映画ゼミナールを催したとき、その上映…

いま、こうして昨日に及ぶ一切は了解的な関わりによってこそ全体ではあったが、変わらず以前に瀕しているようにもみえた。行くほどもなく、弧でなく、左右の消えたはすかいの先で一人、悲しげに疲れて、色彩の貧しさを見下ろしても、新しい眺望を望むべくも…

シュテファン・ゲオルゲ「良心の探求Ⅱ」 汝は愛することを治さねばならぬ。さうすれば汝は愛さるることからも治るであらう。行け!平静な心で憎しみもなく愛もなく、人生を通って行け。途上の樹木に突当ることなく、砂利の上に躓くこともなく。自己を唯一人…

聖なるものが一方的に彼方である以上、その絶対的な「距離」という、断絶あるいは宗教的現象は政治という一定の現実と結びつくときに公の運動として関心を方向づける。存在がそれ自身の限界でわが身を損なってこなかったといえばそうともいえないように芸術…

乳房を、三つより少ない、まだ数えられる、乳房を、自ら晒けだす、はだけて、目の前でしか、女どもは、本当に大笑いだ、その滑稽な、お分かりの通り、おがくずを詰めた、かたちを見過ごして、左右に分かれた、ようやく膨らんで、あるいは目を背けて、その顔…

乳房を自ら晒けだす女どもは愉快なことに、その滑稽なかたちを見過ごして、その顔はいつも慈愛に満ちているが、今ここに、塵埃にまみれたその道の片隅、微醺に痴れたか、満面に朱を注ぎ、悲しさの寒さに心をやつして、しどけなく肢体を晒す彼女はそれと見て…

すれ違い。足音。南から。滴。滴。滴。頬張って。曇り。またしても。路地。傘。回る。右に。左に。例えば。哀しい。子供たちは。諸々の。なければ。必ず。彼に。彼女として。一回転。そうすれば。今。今。未来に。願わない。いくつかは。たくさん。どれ。な…

小高く、妊婦の腹ほどに固い春土に突き刺す十字は君を横に支え、上下を縦に支えている。生きている。そんなか細い釣り合いのなかでは二人は愛せず、いきみを惜しんで一つの身振りが否応無しに互いの注意をひいたが、遂に残される者が別れを生きる過程の始ま…

夕暮れではない。午後でもない。誰もいない。誰も踊らない。宙にくゆる紫煙の影に音はすっかり覆われて、立ちのぼる匂いはいち早く色に混じり込む。そこかしこで物自体は苦悶していた。また、それゆえに不動であった。窓の外で降りしきる意味に庭の根空木は…

夜の掟からかけ離れ、部屋に入るなり窓。枯れたベゴニア。その葉ごもりの深き影の跡を風が吹き払い、私をこそ吹き寄せた。窓に世界を領す闇が垂れて、暗さを持たぬ光はなく、奥行きに不均等な光は幅に広く均等に鞣された。私は自分の上に屈みこみ、その沈黙…